USの消費の中核は一貫して「ベビーブーマー」だった。ベビーブーマーとは第二次大戦終結で帰還した兵士のおかげで出生率が上昇した1946年~1964年生まれの世代をいう。一説には 7,700万人にも上り、当時も今もUS最大勢力にある。(日本では1947年から1951年生まれの「団塊の世代」806万人がそれにあたる)
彼らは巨大な消費市場であり、市場研究の先進国USにおいては、彼らをターゲットにあらゆる試みがなされたと思っていい。彼らに支持され、大衆文化にまで昇華した「商品」は興味深い。今回は、その中でも60年代に社会現象とまでなった「怪奇ブーム」に便乗し、プラモメーカー「オーロラ」のアイコンとなった「ユニバーサル・モンスター」フィギュアモデルを紹介してみたい。
序章
USでの怪奇ブーム
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ユニバーサル・ホラー
1912年設立という古参の映画製作会社であるユニバーサルは、1920年代からホラー映画を散発的に作ってはいたが、1930年代に入ると精力的に量産し始める。その端緒となったのは、「魔人ドラキュラ」(1931/昭和6年2月公開)の世界的大ヒットであった。
この成功を受け、早くも同じ年の11月には「フランケンシュタイン」が公開されると、前作を上回るヒットとなった。これ以降、ユニバーサルがホラー映画を出せばヒットするという流れが、1940年代末までの20年間は続いた。
その功績は、その舵取りを決断した「カール・レムリ・ジュニア」にあった。彼はユニバーサル創業者「カール・レムリ」の息子で、1928年、若干21歳でその経営権を引き継いでいた。しかしカール・ジュニアは、1936年4月にユニバーサルから追放されている。意欲的な大作「ショウボート」の製作費が予想以上に高騰したことから会社の資金繰りは行き詰まり、それを理由に経営権は製作費の借主らの手に渡ってしまったからであった。(ちなみに「ショウボート」は1936年5月に公開されると興行は大成功、今日でもミュージカル映画の金字塔として高い評価を得ている)
さらに余談となるが、「ロン・チェイニー」(後述)と組んでスマッシュヒットを連発していた「トッド・ブラウニング」は、ユニバーサルに請われて「魔人ドラキュラ」を監督した。彼はドラキュラの次に、自身のサーカス団員時代の経験を活かした怪作「フリークス」(MGM・1932年)を撮って世に問うた。しかし、本物の見世物小屋スターを登場させたフリークスは悪趣味映画の烙印を押され、世の非難にさらされた。その映像表現は、当時の未成熟な人権意識に照らし合わせても大きく逸脱していた。これをきっかけにブラウニングの映画人としてのキャリアは坂を転げ落ちるがごとくであった。
ユニバーサル3大怪奇スター
まず無声映画時代の伝説的な性格俳優、「ロン・チェイニー」が挙げられる。「千の顔を持つ男」の異名を持ち、「ノートルダムのせむし男」(1923年)、「オペラの怪人」(1925年)での、自身の手による巧みなメイク術と卓越した演技力で特筆される。トーキーの時代を迎え、「魔人ドラキュラ」(1931年)の主演が内定していたが、1930年に喉頭ガンのため47歳で急逝した。これから始まる怪奇映画ブーム目前での死であった。
逝去したチェイニーの代わりにドラキュラの主演に抜擢された「ベラ・ルゴシ」、ルゴシが拒否した「フランケンシュタイン」の怪物役を引き受け、ルゴシ以上の怪奇スターとなった「ボリス・カーロフ」、この3人が、戦前の「ユニバーサル3大怪奇スター」として位置づけられている。
「3大」という但し書きを無くせば「ロン・チェイニー」の息子、「ロン・チェイニー・ジュニア」を次点として、この枠に入れてもよいだろう。彼は「ユニバーサル4大モンスター(後述)」の「ドラキュラ」、「フランケンシュタインの怪物」、「ミイラ」、「狼男」を全て演じている唯一の俳優であるが、その中でも「狼男」を当たり役としていた。
ユニバーサル8大モンスター
ユニバーサルホラーで特記されるモンスターは以下の8つで、「8大モンスター」と称されている。( )内はUSでの映画公開年月。
「オペラの怪人」(注1) | Phantom of the Opera | 1925年9月 |
「魔人ドラキュラ」 | Dracura | 1931年2月 |
「フランケンシュタイン」 | Frankenstein | 1931年11月 |
「ミイラ再生」 | The Mummy | 1932年12月 |
「透明人間」 | The Invisible Man | 1933年11月 |
「フランケンシュタインの花嫁」 | Bride of Frankenstein | 1935年4月 |
「狼男の殺人」(注2) | The Wolf Man | 1941年12月 |
「大アマゾンの半魚人」 | Creature from the Black Lagoon | 1954年3月 |
(注1) 初の邦題は「オペラの怪人」で、「オペラ座の~」ではなかった。
(注2) 戦時中ということもあって日本未公開。戦後のTV放映時に邦題は「~の殺人」とされた。
このうち、「ドラキュラ」、「フランケンシュタインの怪物」、「ミイラ」、「狼男」を別格として「4大モンスター」と呼ぶ向きもある。
これから紹介するオーロラのキットでは、この8大モンスターのうち、「透明人間」以外全てキット化されている。(なお「透明人間」は、試作されたものの市販に至らなかったとのこと。ちなみに、後年、オーロラ製キットの復刻・リメイクを行った「メビウスモデルズ」は新規金型で透明人間をキット化している)
ハマー・フィルムによるリメイク
ユニバーサルの「古典」ホラーは、1931年の封切り後、1938年、1947年、1950年代初めと何度もリバイバルされていた。1950年代後半には、ユニバーサルから権利を譲り受けた英国の「ハマー・フィルム」が、そのカラー版リメイクを取り組むことになる。
1957年9月に「フランケンシュタインの逆襲」を全米公開すると、ユニバーサル版よりもエロ・グロの刺激を強めたことが功を奏してか大ヒット。翌1958年5月の「吸血鬼ドラキュラ」も前作を越える大ヒットを記録した。これより怪奇映画のリーディングカンパニーは英国に移る。
ハマー版「フランケンシュタインの怪物」および「ドラキュラ」は「クリストファー・リー」が演じた。映画のヒットは、無名の英国人俳優を世界的な怪奇スターの座に押し上げた。
彼は「ミイラ」も演じたが、「狼男」を演じる機会は無かった。
ショックシアター
1957年、ハマーによるリメイク版公開と同じ頃、ユニバーサル古典ホラーはついにテレビに進出した。コロンビアの子会社でTV向けコンテンツの供給を行っていた「スクリーンジェムズ」は、52編のユニバーサル製古典ホラーおよびミステリー映画を1パッケージにし、「ショック」と称してTV放映用に販売した。
「ショック」は巨大TVネットワークの興味を惹くことはなかったが、コンテンツ不足に頭を悩ましていた主要都市のローカル局が飛び付いた。フィラデルフィアの WCAU-TV が「ショックシアター」として放映を開始する。記念すべき第1回は1957年10月7日午後11時25分より、「フランケンシュタイン(1931年)」であった。
この番組は大人気を博すのだが、映画本編と並んで支持を得たのが「ジョン・ザッカリー」によるホストぶりであった。オペラ座の怪人のごとくメイクをした彼は「ローランド」と称し、前座として寸劇とトークで場を温め、映画が終わると幕引きを行う。ザッカリーのパートは生放送であった。
これが受けに受けたのである。彼は1957年から58年まで WCAU-TV で、
1958年から1959年まではニューヨークの WABC-TV で、同じく「ショックシアター」のホスト役を担った。
この手のホスト形式の番組は「ショックシアター」以前にも存在したが、成功の度合いからパイオニアとして認知されている。
他のローカル局も、それぞれ独自のホストを置いて、ユニバーサルのホラー映画パッケージを放映するようになるが、どの局でも成功した。これが全米規模での怪奇ブームの端緒となった。このブームは社会現象となるまで拡大する。このブームでは、TVという比較的新しい情報伝達機構が果たした役割は大きかった。
「ショック」の大成功に気を良くしたスクリーンジェムズは1958年、ユニバーサルとコロンビアのホラー&サスペンス映画20編を1パッケージとした「ソン・オブ・ショック」を販売する。
フェイマス・モンスターズ・オブ・フィルムランド
この怪奇ブームは、コアなファン向け雑誌の援護射撃を受け加速した。その先駆は「フェイマス・モンスターズ・オブ・フィルムランド」誌である。
1958年創刊号 / 1983年最終(第191)号
雑誌は売れに売れ、発行人の「ジェームズ・ウォーレン」は「ホラー界のフュー・フェフナー(プレイボーイ誌の発行人)」と称されるほどであった。
主筆の「フォレスト・J・アッカーマン」は雑誌を通して、将来の有名無名の作家、映像監督、アーティスト、職人たちに多大な影響を与えた。彼はSF/ホラー・オタクの神様として伝説的存在となっている。(日本のSF界との関係も深い)
(1983年)にはフォーリーがカメオ出演している
(マイケルの後ろの眼鏡の男性)
「フェイマス・モンスターズ・オブ・フィルムランド」の成功は「キャスル・オブ・フランケンシュタイン」といった同巧の雑誌を生んだ。
1962年創刊号 / 1975年最終(第25)号
シチュエーション・コメディとの融合
米国お得意のホームドラマも怪奇ブームに寄り添っていった。ABC系列で「アダムズファミリー」が、CBS系列で「マンスターズ」が放映され、どちらもヒットを飛ばしている。
1964–66 ABC & MGM The Addams Family / 1964–66 CBS & Universal The Munsters
版権モノを得意とするオーロラはその2つの怪奇ホームコメディを逃さなかった。両方とも模型化されている。
1965-66 #805 1/64 Addams Family Haunted House / 1965 #804 1/16 The Munsters
第1章
オーロラ・プラスチック・コーポレーションの設立
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第2次大戦が終わった頃、プラスチックは新しい産業を生みだす新しい素材として歓迎されていた。そのような中、オーロラ・プラスチック・コーポレーションは「 ジョセフ・E・ジャマリーノ」(1916–1992) と「エイブ・シャイクス」(1908–1997) によって、1950年にニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区で創立された。当初は100社ほどの顧客を持つプラスチック製品の射出成型の請負会社で、その2人が、仕入れ、製造、出荷、営業、経理・・・と何から何まで執り行っているような零細企業だった。
1952年にセールス担当の「ジョン・クオモ」(1901–1971) が加わり、社員は3人となった。同じ年、オーロラの取引先で金型製作を請け負っていた HMS アソシエーツ社の「レイモンド・ヘインズ」がオーロラにプラスチックキットの製造を勧めてきた。彼は飛行機とスポーツカーが大好きな男で、当時出たばかりの飛行機やスポーツカーのプラスチックキットも大好きだったのだ。
彼が持参したキットは、使われているプラスチックの原材料代からすると、かなり利幅の大きい商品だと、オーロラ3人衆の興味を引いた。その年末には早くもオーロラは、プラスチック・キットを市場に流すようになっていた。
1953年末、需要の増加に対応するため、ニューヨーク州・ロングアイランド・西ハンプステッドに社を移転した。
オーロラがプラスチック・キットを作り始めてから1977年にその幕を降ろすまでの26年間は、まさにアメリカ・プラキット黄金期と一致する。ライバルのレベル(1943年創立)やモノグラム(1945年創立)が模型の精度、再現性を追求することで商品性を高め、しのぎを削っていたのに対し、オーロラはキャラクターモデルといった子供受けする目新しい題材をすばやくキット化し、低価格で大量に販売する戦略を採っていた。ただしオーロラは決して少なくない数のスケールモデルも商品化していたことは明記しておきたい。残念ながら、それらの評価は決して高くはなかったが・・・
Aurora’s first Kit
1952年末、オーロラ初のプラスチック・キットが世に出た。第1作は、 1/4″ = 1/48スケール、「グラマン F9F パンサー・ジェット」で、
第2作は「F-90 ロッキード ・ジェット」であった。
実のところ、この2点は、1928年にソリッドモデルのメーカーとして創業し、1946年にアメリカ初のオール・プラスチック・キットを出した業界の最古参、ホーク社のキットのデッド・コピーであった。
組み立て説明書も丸写しである。
ホーク社のオーナー兼経営者であったメイツ兄弟は、これに怒り、展示会などでは激しい言い合いになったという。
それ以降、ホークはコピー対策として、リベットの細部にモールス信号で「HAWK」という文字を隠すようになった。 しかし、オーロラはそれ以降ホークのキットをコピーすることはなかった。長い年月を経て、緊張は和らぐと、お互いにこの歴史的事実について、冗談を言い合うことができるようになったという。
(ちなみに、日本初のプラモデルとされる(諸説ある)、マルサン製「原子力潜水艦ノーチラス号」(1958年)も、1953年発売のレベル製キットのコピーであった)
Brooklyn Eight
翌53年にはさらに6つのキット、「P40 フライングタイガー」、「ME109 メッサーシュミット」、「ヤク 25(ミグ 19)」、「ジャップ ゼロ」、「P-38 ライトニング」、「F86D セイバージェット」が追加され、シリーズは計8種となった。オーロラがまだブルックリンに存在していた時代に作られた、これら8機は 「ブルックリン・エイト」と敬意を持って呼ばれている。
JAP ZERO
そのうちのひとつ、ジャップ ゼロであるが、いわずとしれた三菱零戦のことである。戦時中の記憶が生々しい頃とはいえ、堂々と “JAP” の表記がされているのは、今の感覚では驚きである。手強かった敵への敬意から選ばれた、というより子供がキットで遊ぶ際、やられ役が必要だったゆえのチョイスであろう。キット自体の出来には何の期待もできないにしても、さすがにボックスアートの黄色く塗られた機体には目まいすら起きる。(原色で子供受けを狙ったのであろう・・・ま、まさか、イエローモンキーの飛行機だから??「モダン・モデルボックスアートの父」と名高い「ジェイムズ・ペティット・コックス」(1910 – 1993) の作ではあるのだが)ご丁寧に、キットのモールドも黄色であった。
1953
2代目パッケージで笑ってしまうのが、垂直尾翼の “I-E” 表記である。
1954
これはデカールの “3-1” を誤読したものであろう。
”JAP” 表記は3世代まで続いた。(垂直尾翼は “3-1” に戻る)
1956
ようやく “Japanses” に直されたが、なぜかスピナーが黄色、エンジンカウルが赤色に変更されている。垂直尾翼は “I-E” 表記に再び戻ってしまう。
1959
Aurora Crown – Famous Fighters
1950年代半ば、ニュージャージー州プリンストンのクラウン・プラスチック社がプラスチック・キットの形式で鎧騎士のフィギュアを製品化した。これはフィギュア・キットの先駆けであった。1956年にそのキットが発売されたときには、新しい会社のため販路を持っていなかったクラウンに代わり、オーロラが流通を担当することになった。ボックスにはオーロラ・クラウンのロゴが表記された。その3体の騎士はよく売れたため、発売1年もしないうちにオーロラはフィギュアの金型ほか生産設備すべてをクラウンより買い上げ、完全に自社製品ラインに組み入れた。これがオーロラのフィギュア・キットの始まりであった。
クラウン製キットはその製品番号からK1(シルバー)、K2(ブルー)、K3(ブラック)と称されることが多い。
K-1 (1956) / K-2 (1956) / K-3 (1956)
その後、オーロラ開発分のK-4(レッド)、K-5(ゴールド)の2点を加え、計5点となった。
K-4 (1957) / K-5 (1957)
6点目のグリーンは原型まで製作した段階でオミットされている。
この5(6)色は、未塗装のままでも見映えがするようとの配慮の上で選ばれたプラスチック成形色そのものである。これら黎明期のキットは、改良や名称の変更を重ねながら、少なくとも1973年版カタログまで居残り続けた。オーロラ閉鎖後、金型を引き取ったレベル・モノグラムから、初版から60年経った現在でも販売されているというのは驚異的といえる。
なお、MSRP(希望小売価格)は98セントで、現代の貨幣価値では約10ドルに相当する。これは1960年代前半に1ドルに値上げされるまで、オーロラの1/8フィギュアキット共通価格として続くことになる。(ただし、馬に乗ったK-5だけは2.98ドルであった)
Guys and Gals of All Nations
1950年代半ばのある調査では、少年たちの約8割が「模型が一番の趣味」と答えている。 それ以前は、男の子の趣味に「模型作り」が入っていなかったことを考えると、その意義は大きい。 オーロラ社は賭けに成功したのである。
次なるターゲットは女の子だ。女の子もプラスチック・キットを作る、オーロラ経営陣は本気でそう考えたようだ。女の子は飛行機には興味はないが、人形には興味があるだろうと踏み、1957年、1/8スケールの “Guys and Gals of All Nations (世界の男女)” シリーズが誕生した。
第1作は民族衣装を着たオランダ人の男女。
2作目は中国人高級官吏と上流階級の女性。これは間違いなく珍品でしょう!!
このシリーズにはさらに、ネイティブアメリカン、スコットランド人、メキシコ人が追加され、5種10体をそろえるに至った。
これらに続くはずだったスイス人男女とアングロサクソンの新郎・新婦は原型の段階でキャンセルされている。
結局、フィギュア・キットに女の子を呼び寄せることには成功しなかった。オーロラの製品はたいてい極めて長い期間カタログに載っているものだが、このシリーズは売れ行き不振で、1959年をもって全てカタログ落ちしている。
第2章
オーロラ・ユニバーサルモンスター・キット
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このフィギュアキット開発の流れの中で、オーロラの企業イメージを決定づける製品が生まれる。
オーロラのマーケティング・ディレクター、「ビル・シルバーシュタイン」は、ブームの真っただ中にあるユニバーサル・ホラーのモンスターを自社のラインアップに加えたいと、経営陣に提案していたが、却下され続けていた。彼はこの企画が通らなければ職を辞すとまで訴え、ついに1961年、初のモンスターフィギュアキット、「フランケンシュタインの怪物」を市場に出すまでにこぎつけた。
シルバーシュタインの思惑通り、あるいは思惑以上の結果として、フランケンシュタインの怪物は超大ヒット商品となった。市場の需要を満たすべく、オーロラは生産ラインをフル回転して対応した。金型を2基用意し、24時間操業で1日につき8,000個のキットを生産した。(1基目の金型では、台座の裏にオーロラとユニバーサルの商標がレリーフされているが、2基目の金型ではオーロラの商標のみレリーフされている)
オーロラ倒産後、フランケンシュタインの怪物の金型はモノグラムの手に渡るが、商標表記部は改修を受けている。なお、台座のノックアウトピン痕を見るに、モノグラムに渡ったのは1基目の金型のようだ。
海賊行為で始まったオーロラのプラキットであったが、フランケンシュタインは当然、ユニバーサルからライセンスを得ている。これをきっかけに、映画やマンガ、アニメのキャラクターの独占ライセンスを得てキット化するというビジネス・スタイルがオーロラを初め他社でも定番化し、一時代を築くことになる。
The Frankenstein Monster
初期のオーロラ製キットを象徴する「ロングボックス」に描かれたボックスアートは、中身のキット以上に評価が高い。(当時モノであれば空箱でも相当額が付く)一連のモンスターフィギュアのボックスアートのほとんどは「ジェームズ・バマ」によるものである。
Issued : 1961 - 1968 Kit number : #423 Sculptor : Bill Lemon Box art : James Bama Plastic : light Grey Scale : 1/8 Box size : (Early) 13" X 5" X 1-1/2" (Late) 13" X 4" X 2" |
Captain Company – Monster Mail Order
厚さの異なるロングボックス
最初期のリリースは、厚さ1.5インチ(3.8cm)の通称「薄い箱(Thin box)」であった。
まもなく、厚さは2インチ(5cm)の通称「厚い箱(Thick box)」に変更された。
上から Thin box 98セント、Thick box 98セント、Thick box 1.00ドル(価格訂正シール貼付)。
Dracula / the Wolf Man
翌62年にはドラキュラと狼男の2種がリリースされ、計3種となった。
Issued : 1962 - 1968 | 1962 - 1968 Kit number : #425 | #424 Sculptor : Bill Lemon | Box art : James Bama | Plastic : dark gray | Scale : 1/8 | 1/8 Box size : 13" X 4" X 2" | 13" X 4" X 2" |
まだドラキュラの原型も完成していなかった時期に出された予告広告。ドラキュラは雇われた役者がそれらしいポーズをとったもので、製品版とは全くポーズが異なる。
DCモンスター誌やフェイマス・モンスター・オブ・フィルムランド誌などに展開した広告も当時の多くの少年たちの記憶に残るものであった。
当時の小売業者のメールオーダー広告も時代が感じられて興味深い。
The Creature / The Mummy / The Phantom of the Opera
1963年には3種追加され計6種となるが、まず、ミイラ男、半漁人が追加され5種となった。
Issued : 1963 - 1968 | 1963 - 1968 | 1963 - 1968 Kit number : #426 | #427 | #428 Sculptor : Bill Lemon | | Adam "Larry" Ehling Box art : James Bama | | James Bama Plastic : Metallic Green | | Black Scale : 1/8 | 1/8 | 1/8 Box size : 13" X 4" X 2" | 13" X 4" X 2" | 13" X 4" X 2" |
1925年公開のロン・チェイニー主演「オペラの怪人」はサイレント映画であったが、1929年にセリフとBGMを加えたトーキー版が公開されている。1943年にはクロード・レインズ主演でリメイクされているが、オーロラのキットはあきらかにロン・チェイニー演ずる怪人をモデルとしている。
このメールオーダーでの価格は、「1ドル+送料35セント」。
こちらでは「1ドル49セント+送料25セント」。卸しによる価格統制は違法、モノの価格は売り手が決めるアメリカらしい。
1963 MONSTER COLORS
モンスターカラーはハンブロールの「One Hour Humbrol Plastic Enamel」の6缶セットに筆1本付きの内容で98セント。
それぞれの色には、「Bloody Red」(血の赤)、「Tombstone White」(墓石の白)、「Ghoulish Yellow」(残虐な黄)、「Midnight Black」(真夜中の黒)、「Deadly Blue」(死の青)、と命名されているが特別に調色されたものはない。なぜか緑だけ枕詞を付けられることがなかった上に、説明書にも緑の存在に言及されていない。(青と黄色を混ぜて作ることになっている)
Dr. Jekyll as Mr. Hyde / The Hunchback of Notre Dame
1964年はシリーズの絶頂期といえた。一気に6種が追加され全12種となる。最初はジキル博士とハイド氏、次にノートルダムのせむし男であった。
Issued : 1964 - 1968 | 1963 - 1968 Kit number : #460 | #461(Early) → #481(Rebox) Sculptor : Adam "Larry" Ehling | Adam "Larry" Ehling Box art : James Bama | James Bama Plastic : White | Tan Scale : 1/8 | 1/8 Box size : 13" X 4" X 2" | 13" X 4" X 2" |
せむし男のボックスアートは2種類ある。初期版(上)と後期版(下)である。
その事情は以下のように推測される。
オーロラは「ノートルダムのせむし男」のキット化にあたり、1956年版を主演した「アンソニー・クイン」をモデルとしたのは明らか。(1923年に「ロン・チェイニー」主演で撮られて以来、5回目の映画化である。1956年版はフランス映画であった)
アカデミー俳優と肖像権問題が発生したのであろう。アンソニー・クインの髪型と顔の輪郭を修正し、ユニバーサルで製作されたロン・チェイニー版に寄せている。
アンソニー・クイン(1956) / ロン・チェイニー(1923)
ただ、キットの方は金型修正までは行われず、アンソニー・クイン版のままである。
さらにいえば、「ジキル博士とハイド氏」のボックスアートにも問題がなかったわけではない。ボックスアートは明らかに1931年版の「フレデリック・マーチ」演じるハイド氏がモデルになっている。この映画の製作はユニバーサルではなく、パラマウントであった。(ユニバーサルも1913年に「キング・バゴット」主演の「ジキル博士とハイド氏」を公開しているが、いささか古色蒼然としたもので、有名なのはパラマウント版であった)
キング・バゴット(1913) / フレデリック・マーチ(1931)
1964 # 463 Customizing Monster Kit #1 / # 464 Customizing Monster Kit #2
オーロラのモンスターキットは今でいうビネット仕立てで、ドラキュラの使い魔であるコウモリや、怪物の足元に転がるガイコツといった、なかなか魅力的なパーツが付属していたが、それらはひとつのキットとしてまとめられ、販売された。これらは、後述するモンスターキットの全米コンテストに参加するモデラーへのオーロラからの援護射撃の意味合いも込められていた。
CUSTOMIZING KIT #1 巨大グモ、ガイコツ、トカゲ、ネズミ、ガイコツとヘビ・・・など
CUSTOMIZING KIT #2 狂犬、ハゲタカ、ガイコツ、ネズミ、コウモリ・・・など
King Kong / Godzilla
ついに「キングコング」と「ゴジラ」という趣向の異なるモンスターが追加された。これは東宝製作の「キングコングVSゴジラ」(1962年)のUSでの配給権をユニバーサルが持っていたからであろう。(本来、キングコングの権利はRKOにあり、ゴジラは東宝にある)
人型モンスターのスケールは1/8であったが、キングコングは1/30、ゴジラは1/200とされた。またこの2種のみ、MSRPが1ドル49セントとなった。
Issued : 1964 - 1968 | 1964 - 1968 Kit number : #465 | #469 Sculptor : Adam "Larry" Ehling | Adam "Larry" Ehling Box art : James Bama | James Bama Plastic : black, beige | purplish-red Scale : 1/30 | 1/200 Box size : | |
モンスター逃亡中!そいつらを捕まえろ!
雑誌の背表紙にはこのような広告が載せられた。
ちょっと珍しい英国における広告。全7種、ジキル博士が載せられていない。(版権の問題か?)
ジキル博士のない全7種にニューカマー2種のメールオーダー広告。
GIGANTIC Frankenstein
ここで変わり種、2フィート(61cm)もあるデフォルメ・フランケンが登場。大きいだけでなく、コミカル仕立てなのも変わっている。
現在はハンサムな吸血鬼が一番人気でトム・クルーズやブラット・ピットあたりも演じたりするほどだが、この当時はフランケンの人気が一番であったことを思い知る次第である。
Issued : 1964 - 1965 Kit number : #470 Sculptor : Adam “Larry” Ealing Box art : James Bama Plastic : light grey, dark grey, black, copper. Scale : Box size : 18" X 15" X 5” |
America’s Hobby Center伝説的な「おもちゃ屋」、America’s Hobby Center (AHC) のメールオーダーでは、巨大フランケンが4ドル98セントで売られているのが分かる。
263 West 30th Street, New York, NY 10001-2801 URLが併記された近年の看板。 1981年から息子が経営する支店がニュージャージーに置かれた。 8300 Tonnelle Ave, North Bergen, NJ 07047 現在、NY店、NJ店とも閉鎖されている。 |
Monster Customizing Contest in 1964オーロラは「ユニバーサル映画」と「フェイマス・モンスターズ・オブ・フィルムランド」誌とコラボして自社のモンスターキットのコンテストを主催した。
The Monster Kornerニュージャージーの「リッチズ・ホビータウン」は、オーロラのモンスターキットを全米で最も売りまくっていた。 1964年、そのホビーショップのオーナー、「リッチ・パルマー」は、モンスターキット・コンテストの主催者として起用されることになった。 Master Monster Makerコンテスト参加申込書 州ごとに「マスターモンスターメーカー」が選抜され、全米大会に進んだ。 マスターモンスターメーカー承認証 マスターモンスターメーカーにはフランケンシュタインのバキュームレリーフが贈呈された。 1st place in gold reflective lettering 2nd place (silver) / 3rd place (bronze) Famous Monsters of filmland #32「Master Model Maker Winners」 となった「ランス・ハーペック」のキングコングが表紙を飾った。 |
The Madame Tussaud’s Chamber of Horrors
1964 #800 Guillotine
スケールは 1/15 とされた。
ギロチンの他、以下の処刑用具や拷問用具が予定されていたという。
The Hanging Tree (縛り首の木) The Gallows (絞首台) The Electric Chair (電気椅子) The Rack (伸張拷問台) The Pendulum (振り子)
しかし、首が飛ぶギミックを持ったギロチンが、あまりに悪趣味と消費者の非難を受けたこともあり、これらすべては、試作あるいは企画段階でオミットされ、世に出ることは無かった。(この内、「The Rack」と「The Pendulum」が後の「モンスターシーン」で世に出ることになるが・・・やはり世間の抗議は小さくなかった。詳細は 2/2 の稿にて)
なお、「The Hanging Tree」は、原型師アル・ロベリオ(Al Reborio)の手によって、レジンキャストのガレージキットとして販売された。その際、アルは凝ったボックスアートまで用意している。
The Bride of Frankenstein / The Witch
Issued : 1965 - 1966 | 1965 - 1966 Kit number : #482 | #430 Sculptor : | Box art : James Bama | Plastic : | Scale : 1/11 | 1/12 Box size : 13" X 4" X 2" | |
1965年にはフランケンシュタインの花嫁、魔女の2種が追加され12種となる。フランケンシュタインの花嫁が1/11、魔女は1/12と今までの1/8とは異なる縮尺となっている。
フランケンシュタインの花嫁は金型がダメージを受けたため(廃棄された?)、再販されなかった。それゆえ、レアモデルとして珍重されている。(ポーラライツは、わざわざ金型を復刻し、リニューアル版を販売した(後述))
魔女はしばしばセイラムの魔女と表記される。魔女のモデルはボックスアートを担当したBamaの妻だそうだ。
1965-67 Monstermobile
60年代のホッドロッドの爆発的ヒットに迎合した製品。デフォルメしたモンスターをドラッグスターに乗せるという趣向の製品は他社でも出ていた、というより、オーロラが後追いした。ホッドロッドパワーはよほど強力だったのだろう、4+2種類も出している。
# 458 Wolf Man’s Wagon
# 459 Mummy’s Chariot
# 465 Frankenstein’s Flivver
# 466 Doracula’s Dragster
以下の2点はリリースが遅れ1966年からの発売となった。
# 484 King Kong’s Thronester
# 485 Godzilla’s Go Cart
カートの前には魚の頭、タイヤはノリ巻・・・で日本のモンスターであることを明示!?東宝は、これらの脚色をゴジラの威厳を損なうものとして嫌った。すぐにキットへの版権の付与が停止されたため、このキットの生産数は少なく、お宝キットとして極めて高価格で取引されている。
1999年、ポーラライツは東宝の版権を取らずに再販した。
The final classic line
1966-68 #422 the Forgotten Prisoner of Castel-Maré
Issued : 1966 - 1968 Kit number : #422 Sculptor : Box art : Plastic : Scale : 1/8 |
初期のシリーズ、最後を飾るのは映画のモンスターではなかった。フェイマス・モンスター・オブ・フィルムランド(Famous Monsters of Filmland)誌とのコラボレーションで、シリーズ中最も異色の「悪夢城の忘れ去られた囚人」が追加された。
なぜか422のキット番号が与えられている。
Aurora 1968 Catalog
Aurora Thirteen + Guillotine
6 Monster Rods
1969-75 Glows in the dark
60年代後半にはいるとモンスターブームは終息していた。またモンスターどころかフィギュア市場全体も冷え切っていた。もはや新金型の開発は望めない中、オーロラは既存のキットに、顔や手足の分だけ蓄光パーツを追加するという最小限の投資で、ニューシリーズを構築した。
初期は「フランケンシュタイン」「狼男」「オペラ座の怪人」「ミイラ男」「ガイコツ」「ドラキュラ」の6種を発売。これら初期6種のボックスのみ、縦長箱デザインが与えられている。
1971年にオーロラがナビスコ傘下に入ると、オーロラ製品のフォーマットに改変が入った。1972年版より箱の形状が 8.25″ x 8.25″ x 4.25″ となった。会社のロゴも新しくなった。金型が失われてしまった「フランケンシュタインの花嫁」以外の全12種が光るキットに変身している。これら光るキットはスマッシュヒットを飛ばし、キットの生産は1975年まで続けられた。
日本の模倣者
岡本模型(岡本プラスチック工業所)は、東京における模型のメッカ、台東区駒形に1966(昭和41)年から1969(昭和44)年にかけ存在したメーカーである。「アイデアーとセンス」を自社のキャッチフレーズとして標榜していたが・・・
1967年夏に新発売された初期モデルは、オーロラ張りの箱絵ながら、本家に無い「ゼンマイ動力」「発火そうち」のギミックを有していた。
キットは1969年春にリニューアルされた。上記ギミックが廃されディスプレイキットとなった上、価格も50円値上げされ、300円となっていた。箱絵も稚拙なものに変更されている。岡本模型はこの年の夏に倒産してしまうのだが、これらは資金繰りに窮していたことの現れといえようか。
「怪物くん」と「怪物さん」・・・。
(2/2に続く)