前後26インチのホイールサイズがMTBには当然と長らく思われてきた(24インチは小柄な人のための非常手段の域を出ることはなかった)が、誕生から20年経って突然、革命的変化が訪れた。そう、29インチホイールのデビューには誰もが心底驚いたことだろう。
当初、29インチホイールはフィールドからの必然的要求というよりも、変化のための変化(閉塞した市場へのカンフル剤的な)とも受け取れなくもなく、なにより平均的日本人には手に余る大きさであり、懐疑的に思われていた。とはいえ、29インチは一定以上の評価を得て、さらには27.5インチが登場したことで、われわれが長らく慣れ親しみ、かけがいのない経験と資産を積み重ねてきた26インチは絶滅の危機に瀕することになったのは、本当に悲しいことである。
おっと、話が逸れた。『29インチホイール誕生物語』といえば、日本で一番知られているのは、ゲーリー・フィッシャーが主人公のものではないだろうか。しかし、違う人物が主人公だと考えている人もいるし、我こそがそうだと主張している人もいる・・・まあ、大きな仕事が成し遂げられた後は、手柄の取り合いというのが人間の性ですかね?NHKの「プロジェクトX」みたいにキレイゴトだけではコトは進まないのが現実です。(アレは、ドキュメントの体裁をとった「フィクション」、お涙頂戴を狙ったTV屋のご都合主義の集大成ですから・・・)
ゲーリー・フィッシャー編
90年代末、「ゲーリー・フィッシャー」は、自身が温めていた29インチタイヤを持つMTB(29er)のアイデアの実現に際し、長年29インチこそMTBの本来あるべき姿と信じ活動してきたアイビスの「ウェス・ウイリアムズ」(Wes Williams)と合流する。
2人は、WTB の「マーク・スレート」にMTB用29インチタイヤの製造を要請するが、太っ腹にもWTBはそれに応じ、1999年、WTBは、その年9月の北米最大の見本市(インターバイク)で、MTB専用29インチタイヤ、ナノラプター(Nanoraptor)を発表した。
ウェス・ウイリアムズ編
ゲーリーフィッシャーが登場しないバージョンもあって、以下の通りである。
ジョー・ブリーズも以下のような文章で、この説を援護している。
さらにこんな話もある。
ドン・クック編
80年代から大径オフロードタイヤにこだわっていたサルサの「ロス・シェーファー」(Ross Schafer:後述)は、ブルース・ゴードン・サイクルの「ブルース・ゴードン」(Bruce Gordon:後述)にその影響を与えた。そのゴードンは、WTBで仕事をしていた「ドン・クック」(Don Cook)に大径オフロードタイヤ思想を授けるに至った。
Ross Schafer / Bruce Gordon
その頃、29インチ・オフロードタイヤには、「コンチネンタル・ゴリアテ 700C x 47mm」、「ロックンロード 700C X 40mm」(後述)、「パナレーサー・スモーク 700C x 45mm」などが存在していたが、クックはそれらよりもエアボリュームを持つ「本当の」オフロードタイヤを作りたいと考えるようになった。
その構想実現の助けとすべく、クックはWTBの大きな顧客であったゲーリー・フィッシャーを自陣に引き込むことに成功した。まもなく、その陣営にウェス・ウイリアムズも加わった。WTBがMTB専用29インチタイヤを生産するのを後押しする役者がそろった。
ただし、WTBにおけるクックの上司であるマーク・スレートはこう述べていたことが後に公開されている。
『But one thing for sure is that Don Cook had so little to do with the development of 29″ wheels that it just took me by surprise that he would even think that he did and I took offense to that. (しかし、ひとつ確かなこととして、ドン・クックは29インチホイールの開発ではほとんど何もしていないのだが、彼は自分がそれをなし遂げたと思っていることは、私を驚かせたよ。腹立だしいことなんだが)』
商業的な大成功へ
とにかく、核となるタイヤの完成により29erの開発は加速する。ゲーリー・フィッシャーは、1999年のプロトタイプを皮切りに、ついに2002年モデルとして初の29er市販車マウントタム29(Mt Tam 29)の発売にこぎつける。当初は目立った成功を得られなかったものの、地道に開発は続けられ、ついには競技においても商業的にも大成功を収めるに至った。
29erについて、ゲイリー・フィッシャーは日本のメディアのインタビューで以下のように語っている。
http://bikejournal.jp/main/?p=2897 あれは、そうだ。ちょうど10年程前で市販するかしないかの前後だったけど、29erの最初のアイデア自体は15年前にスケッチを起こした。1997年の事だ。最初にアイデアを出したものの、面白いと思ってくれる人はあまり多くはなかった。だけど私は知っていた。26インチは本当のMTBの為のサイズじゃないってことを。 何故なら、MTBを最初に発明したときにたまたま手に入りやすい規格のリムとタイヤが26インチであっただけで、当時からロードバイクの経験もあってジオメトリーにこだわっていた私にとってそれは本当の意味で本望ではなかったが、ものの数年でMTBは急速に世界中に広まってしまったので、それが標準規格になっていった。 だから29erによってMTBを再定義したんだ。(後略) http://bikejournal.jp/main/?p=2897 (略)(29erのアイデアを最初に思いついたのは)MTBを発明した頃になる。リパックレースの舞台だったタマルパイアス山(Mt.TAM)の頂上は非常に岩がゴロゴロしていて、それに対して自転車のタイヤがとても小さかったのが印象的で大きなタイヤで走ってみたい。いつかそれを試してみたいと思った。それが29erのアイデアの原始だ。(略)(それは)1979年だ。(略)79年にMountainBikes社をチャーリー・ケリーと作った頃は、本当にオカネがなかったし、タイヤメーカーやホイールメーカーとのリレーションシップもなかった。なので試してみたくても試せなかった。 |
事実は違っている。実は『MountainBikes社をチャーリー・ケリーと作った頃』に、ゲーリー・フィッシャーは700C(29インチ)および650B(27.5インチ)のオフロードタイヤを試している。ただし、それは1979年ではなく、1980年以降のことだ。さらに、そこには英国のジェフリー・クレランド・アップス(Geoffrey Cleland Apps)の協力があった。(ゲーリーは、『MTBを最初に発明したとき』・・・すなわちクランカーにディレイラーを取り付けたときの経緯もそうだが、この手の業績となるアイデアを自分一人で思いついたことにしてしまいがちのようだ)
29er成功の功績はゲーリーだけのものではない。ただし、ゲーリーは運か実力か、29er開発において、常に「いい位置」にいた。そして彼一流のマーケティング・センスで命名された『29er』の名は、きわめてキャッチーで、700Cの理解と浸透に大きな寄与を果たしたといえる。(マウンテンバイクの命名者もゲーリーである!)MTB登場以来35年もの間、ゲーリー・フィッシャーが常に第一線にいられるのは、この辺りの彼の嗅覚とセンスが由縁であろう。
Geoffrey Cleland Apps
長い前置きになってしまったが、ここから本題。以下、ゲーリーに大径オフロードタイヤのなんたるかを伝えたジェフリー・クレランド・アップスを紹介したい。
英国人のジェフ・アップスはオートバイ・トライアルのエキスパートであったが、1960年代初頭、ロンドン市内から自然豊かなバッキンガムシャーのアストン・クリントン(Aston Clinton, Buckinghamshire)に引っ越したのをきっかけに自転車によるトレール・ライディングを始める。
1968 Raleigh Explorer Custom
ジェフはオートバイ・トライアルの経験から、強くアップライトなポジションと極低速で安定したバランスを持つ自転車を好んだ。1968年、彼はラレー・エクプローラー(Raleigh Explorer)のフレームに、オリジナルの24インチから26インチ(650A)に大径化したホイール、より長い27インチ用フロントフォーク、幅広いアップハンドルバーを組み合わせたカスタムバイクを製作した。
1979 Range Rider
いろいろな市販フレームが試された後、ついに彼の理想を実現するためにオリジナル・フレームの製作に着手することになる。1979年、ディーズサイクルズ・アマーシャム(Dees Cycles – Amersham)のロイ・デイヴィス(Roy Davies)に依頼し、レンジ・ライダー(Range Rider)が作られた。
タンデム車やツアラーに使用されていた2インチ幅の650Bリムと低空気圧で使用するのに適したフィンランドのノキア・ハッカペリッタ・スノータイヤが採用された。前後ドラムブレーキはルルー(Leleu)製モペット用。BB下のスキッドプレートは、トライアルマシン譲りの装備であった。
レンジ・ライダーは、開発の進行に応じて、いろいろなバージョンが存在する。
1980 The American Connection
ジェフは、USのBMX雑誌、BMX Plus誌の1980年2月号でリッチー製マウンテンバイク(ゲーリー・フィッシャーのプライベートバイクそのもの!)の記事を読んだ。海の向こうに同じようなバイクを製作している同好の士がいることを知ると、その雑誌にクレジットされていたゲーリー・フィッシャーとチャールズ・ケリーのマウンテンバイクスに連絡を取った。そこから両者の交流が始まる。
ジェフはその交流の中で、USにはなかった650B(そして700C)のノキア・ハッカペリッタ・スノータイヤの存在を知らしめた。USに送られたハッカペリッタはゲーリー・フィッシャーを介してマリン周辺のオフローダーたちの手に渡った。リッチー他フレームビルダーらが専用フレームを製作した。彼らはその大径タイヤの性能を大いに気に入り、今後、自分たちのMTBの標準規格として採用したいと考えたほどであった。
その頃、まだまだ新しい分野であったMTBにおいて、26インチタイヤという選択は決して揺るぎないものではなかった。650B(あるいは700C)は26インチにとって代わりうる可能性は十分あったのである。しかし、不幸にもハッカペリッタの供給体制はUSではきわめて不安定であったため、そうなることはなかった。当時、650Bおよび700Cの本格オフロードタイヤはハッカペリッタが世界で唯一のものであり、代わりはなかった。(オン・オフ・ハイブリッドタイヤとしてはコンチネンタルのゴリアテは存在した)
Love letters from California
1980年から1982年の3年間にかけてマウンテンバイクスとジェフの間で交わされた手紙が残されている。
マウンテンバイクスの2人は、650BオフロードタイヤはUSに存在しないので、何本か送ってほしい旨を伝えている。
1981 700C Range Rider
1981年、700Cx47mm (29インチ、ヨーロッパでは28インチと呼ぶことが多い) 仕様のレンジ・ライダーが1台のみ作られた。これは後に市販されるアヴェンチュラ(Aventura)の直接的なプロトタイプとなった。ただしアヴェンチュラには700Cは採用されなかった。というのも、世界で唯一の700Cサイズのスノータイヤの生産は、まもなく停止されてしまったからだ。
この700CタイヤもUSに送られ、テストで好評を得た。しかし、上記の理由で、MTB用700Cタイヤは(20年以上たってから、ゲーリー・フィッシャーやマーク・スレートらが再び引っ張り出すまで)お蔵入りとなった。
左が650Bモデル、右が700Cモデル。両者のタイヤ径の差は一見して大きい。
1982 Cleland Aventura
1982年、ジェフは、自身のデザインによる自転車を販売するためのクレランド・サイクルズ Ltd(Cleland Cycles Ltd)を起こし、レンジ・ライダーでの開発を結実させたアヴェンチュラを発表する。
アヴェンチュラは受注生産で、価格はおよそ£400(当時の為替レートで17万4千円)であった。テルフォード(Telford)のイングリッシュ・サイクルズ(English Cycles)のジェレミー・トール(Jeremy Torr)がフレームを製作し、組み立てはバッキンガムシャー・ ロウシャム(Rowsham, Buckinghamshire)のクレランド・サイクルズでジェフ自身が行った。
1984 The close of Cleland Cycles
1983年、MTBが英国に上陸すると、英国でも大ブームとなり、ジェフはオフロードレースイベントを主宰するなど、英国におけるオフロードライディングのパイオニアとして活躍することになる。
一方、MTBの出現が、ジェフのアヴェンチュラに引導を渡すことになった。アヴェンチュラの潜在顧客はMTBに流れてしまったからだ。1984年末、財政的理由からクレランド・サイクルズは閉鎖・清算される。
その後、ジェフは出版に注力することになる。クレランド・ブランドは、イングリッシュ・サイクルズとハイパス・エンジニアリング(Highpath Engineering)に受け継がれ、1990年代まで継続する。
1986 Making Tracks
ジェフほか10人のスタッフにより、MTBコミュニティの確立、全国各地で開催されるイベントの促進を目的とする、英国初のMTB専門誌「メイキングトラックス(Making Tracks)」が創刊された。
メイキングトラックス誌は、隔月(年6号)の出版で、モノクロA5判、定期購読者に郵送で配本されていた。現在では、米国の「ファットタイヤフライヤー」同様、知る人ぞ知る、ほとんど伝説的な存在となっている。
1988年にモノクロのまま版型がA4に変更されると、その3号後に書店販売される総合自転車誌「ニューサイクリスト(New Cyclist)」に吸収された。(1993年、廃刊)
メイキングトラックスのロゴが小さく表示されている
1986 Dingbat / 1987 Clelandale
ジェフは余暇に自転車の開発だけは続け、1986年には24インチのトライアルマシン、ディングバット(Dingbat)を、1987年には、キャノンデールの市販車に、ハイライズ・ハンドルバーと前後ドラムブレーキといったクレランド流パーツを装着したクレランデール(Clelandale)を製作するが、どちらもプロトのみで終わった。
1977 Ritchey 650b Mountain Bike 2012年のインターバイク(自転車見本市)に1977年に作られたというリッチー650Bマウンテンバイクが展示された。 リアはスパイクを保持できないほど摩耗してしまっている。 口上は以下の通り。 "これが私がマウンテンバイクについて考えた最初の努力の結実である" (トム・リッチー) 1970年代後半、トム・リッチーは他にないバイクの製作という挑戦を 受けていた。それはジョン・フィンリー・スコットの依頼であった。 彼は英国の"ウッドシー"(訳注:"Woodsy"ではなく"Woodsie"の綴りが 正解)と呼ばれた自転車の信奉者であったため、このバイクは650bの ホイールを履き、英国の農道や山道を冒険するようにデザインされた。 それ以前からトムは650bのノビータイヤこそパフォーマンス志向の オフロードバイクにおそらく最適なサイズであろうと考えていたが、 残念なことにアジアの大資本の製造業者らはすでに26インチのリムと タイヤに設備投資してしまっていた。
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1988 Bruce Gordon Rock ‘N Road
フィッシャーがハッカタイヤを供給していた頃、それ用のフレームを作っていたロス・シェーファーは、ハッカタイヤの供給が止まった後も、大径オフロードタイヤにこだわり続けていた。シェーファーの工房の隣に自身の工房を構えたブルース・ゴードンは、シェーファーが持っていた 700Cx47mm のハッカタイヤを見て感銘を受ける。
700Cのムーブメントには遅れてきたゴードンだが、行動は迅速大胆であった。ゴードンは700Cのオフロードタイヤの生産を、チェンシン(Cheng Shin Rubber Industries)に働き掛けた。(チェンシンは現在、Maxxisブランドを展開する台湾の会社)その少量のOEM生産は引き受けられ、1988年、700Cx40mmのロックンロード(Rock ‘N Road)がブルース・ゴードンのブランドの下、発売される。ロックンロードはハッカタイヤより安価で軽量化もなされていた。デザインは、ジョー・マレー(Joe Murray)とされているが、ハッカペリッタのコピーと評する人も多い。
同時にそのタイヤを履く同じ名前のオン&オフバイクがブルース・ゴードンより発売された。(フラットハンドルかドロップハンドルか選択可能だった)
A Brief History of the Rock ‘n Road
2012年、ロックンロードはパナレーサーのOEMで復刻する。タイヤ幅はわずかに増やされ、700Cx43mmとなった。(2014年、650BX43mmも追加された)
1992 Diamond back Overdrive Comp.
1980年代後半から、ウェス・ウイリイアムズ、ブルース・ゴードンといった大径ホイールにこだわる個人ビルダーのみならず、いくつかの量産メーカーでも700Cタイヤを履くオフローダーが、ごく少数であるが試作される流れはあった。そのような状況の中、1992年、ついに量産700C・MTBが市場に現れる。ダイアモンドバック・オーバードライブ・コンプである。80年代、ダイアモンドバックのワークスBMXレーサーとして活躍したハリー・リーリー(Harry Leary)は、当時ダイアモンドバックのチーム・マネージャーを勤めており、彼の強い後押しでオーバードライブは世に出たのだった。
タイヤは 当時唯一の700Cノビータイヤとして有名なパナレーサー・スモーク(700Cx45mm)で、オーバードライブはクロモリフレームの重さと、事実上、タイヤをスモーク1種類しか選べなかったことが問題とされた。ダイアモンドバックのワークスMTBレーサー、デイヴ・ウエイン(Dave Wiens)のライディングでオーバードライブはカクタスカップ(Cactus Cup)の1992年シーズンに何度か出走しているが、彼のレーサーはチタン製フレームのスペシャルであった。700Cはウエインには好評であったが(特に登りで)、オーバードライブは商業的には成功に至らず、1993年モデルをもって生産中止となった。(オーバードライブはウェス・ウイリアムズのデザインと耳にしたが本当だろうか?)