先の投稿で、世界初の量産MTB、初代スタンプジャンパーは日本で作られたと書いたが、スタンプジャンパーの誕生の裏話は複雑で、一筋縄ではおさまらない。
スタンプジャンパーはリッチーのコピーか?
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“Designed by Tim Neenan”
スペシャライズド公式には、社内デザイナーの「ティム・ニーナン」(Tim Neenan)がスタンプジャンパーのデザイナーである、としている。彼はそれ以前にも、スペシャライズドがリリースしたロードフレーム「アレー」および「セコイヤ」にも関わっている。
現在、ニーナンは「ライトハウスサイクルズ」(Lighthouse Cycles)を主宰している。
スタンプジャンパーの左側チェーンステーにはニーナンのサインをプリントしたステッカーが誇らしげに貼られている。
その一方、巷ではまことしやかにこう言われている。1980年、スペシャライズドのマイク・シンヤードはゲーリー・フィッシャーとチャールズ・ケリーのマウンテンバイクスに2基のフレームを発注した。シンヤードはそのリッチー製フレームを日本に送り、コピーを量産させた。それがスタンプジャンパーになったと。
マイク・シンヤードがマウンテンバイクスにフレームを発注したのは事実。また初代スタンプジャンパーが日本で作られたのも明らかな事実。しかし、日本でリッチーのフレームが、まんまコピーされたか否かは、あくまで藪の中である・・・(追記:シンヤードが購入したのはベア・フレームではなく、完成車であることが判明した)
なお、両車で細部の仕上げは異なり、リッチー車のフレームは、工芸的なフィレットブレイズ技法(接合部にたっぷりのロウを盛った後、整形して磨き上げる)で仕上げられているが、スタンプジャンパーは、TIG熔接された突き合わせ面そのままである。
誤解のないように書いておくが、工業的には、TIG熔接は熔接の中でも最高品質のひとつと評価されており、強度だけみれば、ロウ付けよりもTIG熔接の方がはるかに優れている。この頃すでに、フィレットブレイズもTIG熔接したパイプ接合面の上に美的目的に施されることが多かった。(当時のリッチーは純粋にロウ盛りだけでパイプを接合していたが)
スタンプジャンパーのフロント・フォーク長問題
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コピー肯定派が支持する説に、コピーの過程で・・・本質を理解していないデッド・コピーだからこそ・・・起こりえない手違いが起きた、というものがある。
マウンテンバイクスにフレームを供給していたトム・リッチーは、多産のビルダーではあったが、手間のかかるフロント・フォークの製作は好きではないと公言しており、フロント・フォークの納期は遅れがちだった。
それゆえ、フィッシャーとケリーは、新たにフロント・フォークを作ってくれるビルダーを探すことにした。南カリフォルニアにおけるフレームビルダーの先駆、「サターン・サイクル」主催の「ジョン・パジェット」(John Padgett)が引き受けてくれることになった。(パジェットはJ.F.スコットのためのカスタムバイクを製作しており、スコットからの紹介だったと思われる)
フィッシャーは、パジェットにフォーク材として(リッチーが愛用していたコロンバスとは異なる)レイノルズ製フォーク・ブレードを供給したが、それは700cを使うタンデム車用であった。フィッシャーがフォーク長の指定をしなかったため、パジェットはそれをカットすることなく、そのまま使用した。その結果、フォーク長は本来よりも1.5インチ(3.8cm)ほど長いものとなってしまった。
フォークは1ダースほど作られてしまったため、リッチーはそのロングフォークを組んでもトップチューブが水平となるよう帳尻を合わせたフレームを新たに作ることになった。その修正によって、ボトムブラケット高は本来の高さよりも3/4インチ(1.9cm)ほど高いものとなり、キャスター角も66度から70度まで立てられることになった。
マイク・シンヤードが、マウンテンバイクスから2基のフレームを購入した際、受け取ったのは、このロングフォーク・バージョンであった。しかし、日本でコピーされたフレームには、どういう手違いか、26インチ用の短いフロント・フォークが組み合わされてしまったという。
スタンプジャンパーが世に出たころ、そのハンドリングを酷評する向きがあった。それを、価格破壊で市場を荒らすニューカマーへのやっかみに過ぎないと受け取るか、あるいは、フォーク長の手違いが酷評されたハンドリングの隠された原因であったとみるか・・・
この件と関係あるのか・・・初期型スタンプジャンパーのフォークはノーマル長だが、2007年に限定再販されたスタンプジャンパーにはロングフォークが付けられている。
ジョン・パジェット製バイプレイン(ノーマル / ロング)
スタンプジャンパーのキャストラグ (1981年モデル / 2007年モデル)
現在、スタンプジャンパーのハンドリングを酷評したレビューを探している。(マウンテンバイクスのチャールズ・ケリーが「リッチー車が泥の中を走っている程度」と書いたものがあるという・・・)
スタンピーのデビュー間もない頃のFTF(Fat Tire Flyer)誌に、チャールズ・ケリーによるレビューが掲載されているが、(残念ながら)当たり障りのない紹介に過ぎなかった。
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ティム・ニーナン作シャパラル
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「マウンテンバイクアクション」2018年9月号に衝撃の記事が掲載された。ティム・ニーナンが初代スタンプジャンパーのプロトタイプは、自分がスペシャライズドに勤める前に作った「シャパラル」であると述べているのだ!これをどう理解すべきか!?
(以下、記事の抄訳)
スペシャライズド・スタンプジャンパーの歴史
スペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツ創業者マイク・シンヤードが、世界初の量産マウンテンバイク、スタンプジャンパーを作り、市場に送り出した1981年当時、マウンテンバイキングはまだヨチヨチと歩きだしたばかりだった。その頃、わずか数名のカスタムビルダーたちがマウンテンバイクのフレームを売っていたに過ぎなかった。それにもかかわらず、そのスポーツは人気を博しており、シンヤードはそれを見た時、自分は何をすべきかを分かっていたのだった。
小史
1974年、シンヤードはスペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツを始めた。その年より前、シンヤードは自分のフォルクスワーゲンのマイクロバスを1,500ドルで売り払い、ヨーロッパを自転車で巡る資金に充てたのだった。
シンヤードがイタリアを回っている際、チネリの創業者チーノ・チネリと出会った。シンヤードは、1,000ドル以上もの自転車パーツをチネリから購入し、アメリカで売るために持って帰った。すでにVWバスは売り払ってしまっていたので、シンヤードは、持って帰った自転車パーツをリアカーに満載し、それを自転車で引っ張りながら、店から店へと売ってまわったのである。これがスペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツの始まりだった。
2年後の1976年、スペシャライズドは自身のブランドを冠したロードバイクタイヤを世に出した。その後、会社はロードバイク自体を作り始めた。フレームビルダーであるライトハウスサイクルのティム・ニーナンがシンヤードのためにフレームをデザインすると、シンヤードはその生産を日本の会社に手配した。シンヤードとニーナンは、そのフレームのためのコンポーネントをあつらえた。初のスペシャライズドのロードバイクは、その後すぐに市場に出回ったのだった。
ニーナンはその頃、未舗装路を走行するために英国で作られている「ラフ・スタッフ」バイクについての自転車雑誌記事を読むと、自身のダート走行用のバイクの試作に取り掛かっていた。
『初めて「ラフ・スタッフ」について知ったのは、バイクワールドマガジンだったと思う』
ニーナンはマウンテンバイクアクション誌に語った。
『そのバイクは基本的にツーリングバイクで、今日のグラベルバイクによく似たものだ。私は自分で作ったツーリング用フレームに、たっぷりのクリアランスとカンチレバー・ブレーキを与えて、たくさんのダートを走ってきた。26インチのノビ―タイヤが手に入るようになった時、私はそのタイヤに合う(シャパラルと呼ばれる)フレームを作ったんだ。』
ニーナンは26インチタイヤについて語った。
『26インチタイヤがもたらすものが、私は好きなんだ』
ニーナンはさらに続けた。
『私は最初のシャパラルをサンタバーバラに住んでいた時に作った。スペシャライズド最初の従業員として、フルタイムのデザインとセールス職に就くためにサン・ノゼに移り住む前のことだ。1979年の頃だったかな。シャパラルは、言うなればスタンプジャンパーのプロトタイプだったんだよ』
『そして、マイクはリッチーを購入すると、週末に私と一緒に走るようになった。ある週末のダート走行後の月曜日の朝、私はシャパラルをベースにした量産マウンテンバイクを作ることを提案したんだ。私とマイクのバックには、その時、スペシャライズドが付いていたのだから。私はそのバイクの計画を書き上げると、日本に行って、マウンテンバイク生産が上手くスタートするように、1年もの時間をかけて手はずを整えた』
最初の生産分
シンヤードは日本にスタンプジャンパーのフレームの初生産分を発注すると、バイクを完成させるために必要なコンポーネントを購入した。BMX用を改良したステムには、マグラ製のオートバイ用を基にしたスチール製ハンドルバーが取り付けられた。マファック製カンチレバーが、ツーリング自転車界から借りてこられ、ストッピングパワーを供給した。ブレーキレバーは、トマゼリのオートバイ用であった。サンツアーARX 15速ドライブトレインは、ロードバイク界から借りてこられ、ライダーたちに山で彼らが必要とするギアリングを提供した。最初のスタンプジャンパー完成車は、車重29ポンド(13.15kg)で、一台750ドル(訳注:現在の価値で2020ドル)で売られた。フレームは395ドルであった。
最初の生産分である250台のスタンプジャンパーが売り切れると、シンヤードはさらに250台を発注した。他社も何が起きているかを知ると、その市場への参入を決めたが、スペシャライズドは有利なスタート切っていた。競合他社は、マウンテンバイクの需要が爆発した時に、ようやく後追いを始める状態にあった。
2010年に準備された調査報告によると、1982年に5,000台だったマウンテンバイクのセールスは、1983年には50,000台に上昇していた。1986年までに、マウンテンバイクのセールスは、米国内の自転車専門店で売られた自転車全体の60パーセントとなるに至った、と報告されている。マウンテンバイクの販売台数は、数百万台に舞い上がった。スタンプジャンパーは革命を起こす手助けをしたのだった。
先駆者
最初のスタンプジャンパーは、トム・リッチー初期のマウンテンバイクス・フレームに倣って製品化されたのではないかと考える人がいるということに対し、スペシャライズドのフレームデザイナー、ティム・ニーナンは、こう述べた。自分は実際にこのバイク・・・ライトハウスサイクルズ・シャパラル、スペシャライズド 26X1.25インチのファットタイヤを履く、1979年頃に作った・・・に倣って最初のスタンプジャンパーを製品化したんだ。
(記事の抄訳ここまで)
シクロウネ製プロトタイプが存在した
————————————————————————————————————————「CAMBIO工房」氏によってメガトン級爆弾が掘り起こされた。まさか40年後の令和の世に、それもMTB不毛の日本からなされるとは、誰が想像しえただろうか。
上で述べたとおり、USの関係者においては、「初代スタンプジャンパーはリッチーのバイクのコピー」と信じられているが、実のところ、その根拠は状況証拠のみというハッキリしない状態が長く続いていた。(マイク・シンヤードは、ゲーリー・フィッシャーからリッチー製MTBを2台購入した。その後まもなくスペシャからよく似た量産バイクが世に出てきた。これはもう日本でコピーを作らせたに違いない・・・)
マイク・シンヤードは未来永劫、この件に関して口を割らないだろう。当時の日本の関係者は真実を知っているはずだが、日本の業界人は口が重く、USの関係者にとって言葉の壁も厚い。かような膠着状態の中、関係者が待ち望んでいた核心情報・・・コピーの証拠が挙がったのだ!
スクープの経緯は全くもって偶然で(そこがまた尊いのだが)・・・CAMBIO工房氏が知人から古いMTBを預かった。それは、日本MTB黎明期にシクロウネが世に出した「カシワ号」であった。氏は、交流のある元シクロウネのフレームビルダー(ここでは「T氏」とする)を訪ね、この珍しいMTBへの意見を求めた。そこで瓢箪から駒が出たのである。
まずは、CAMBIO工房氏による一連の投稿「カシワ・トムキャットについて」をご熟読いただきたい。さらに核心事実のみを抽出した「三連勝製試作スタンプジャンパーMTBのおさらいを。」を読めば、私と同じくらいにコトの重大性を受け止めたことになるはずだ。
今回、CAMBIO工房氏から、氏の発掘した貴重な情報を当ブログで使用することを快諾いただいた。それに基づき考察を加えていきたい。
(以下の青字部分は、CAMBIO工房氏による情報である。なるべく原文のままの引用となるよう心掛けた。なお、CAMBIO工房氏のいう「三連勝」と、私の言う「シクロウネ」とは、等意と理解していただきたい)
シクロウネがスタンプジャンパー試作にかかわった経緯
スタンプジャンパーに関わる以前から、三連勝は、スペシャライズドのハイエンド・ロードバイクをOEM製作していた繋がりがあった。それは「アレー」と「セコイア」で、知る人には知られた事実である。
ゲーリー・フィッシャーのマウンテンバイクスからリッチー製MTBを2台購入したマイク・シンヤードは、1980年秋に行われたアメリカのバイシクルショーで、三連勝の今野義氏にそのうちの1台を託し、市販を前提としたMTBの試作を依頼した。
今野義氏はリッチーMTBを日本に持ち帰り、こんな自転車を試作すると三連勝のスタッフに披露した。
三連勝のスタッフはMTBに初めて触れて、乗ってみて、ずいぶんと重い乗り味の自転車だなと思ったという。
スタンプジャンパーを試作する
三連勝によるスタンプジャンパー試作は、当時三連勝で試作車の製作を行ったビルダー(T氏)から直接聞いた話である。
試作は1980年暮れから1981年初頭にかけて行なわれた。
スケルトンはサンプルMTB(リッチー)をコピーした。(T氏から、リッチーMTBのサイズを測りながら製作した事を生々しく伺った)
パイプは国産で極力丈夫なパイプを選んだ。シクロウネと石渡との関係の深さは良く知られており、試作車には石渡のパイプが使われたことであろう。(一方、スタンピー量産車では丹下のパイプが使われている)
ダウンチューブはタンデム用のオーバルパイプを使用。
フォーククラウンは丈夫な一輪車のフォーククラウンを使った。
チェーンステーは長いチェーンステーがなかったのでモノステー構造にした。
フレーム、フォーク以外の構成パーツは、リッチーMTBから試作車に移設された。この情報から、マイク・シンヤードは(USで言われているような)ベア・フレームではなく、完成車を購入したと判断できる。
証言から、コピーは主にサイズだけで、細部の構造はかなり三連勝側でアレンジされたことが分かる。リッチー車のBBは汎用シールドベアリングを圧入するようにできているが、そこはコピーされず、試作車には専用自転車部品を使うように変更されている。
試作車の不採用
完成した車体はマイク・シンヤード氏が日本に来て確認したと言う事だが、今野義氏とどんなやり取りがあったのかは不明。
結局、三連勝で造られた試作車は採用されなかった。
当時の三連勝ではMTBフレームをOEM製作を行う余裕がなかったのも要因の一つと思われる。
市販スタンピーは東洋フレームがOEMを担当したと言うので、東洋フレームでも同時期に試作MTBを作ったのではと考える。(スタンプジャンパーと東洋フレームとのかかわりについては、以下で考察を行いたい)
試作車は雑誌での試乗記事などに使われた。
しばらくして三連勝の塗装に塗り替えられた。
試作車は現在、行方不明である。
スタンプジャンパー試作車の露出
件の試作車は、サイクルスポーツ82年8月号とニューサイクリング82年6月号に載せられている。
サイスポ82年8月号の記事は私も見ている。それどころか、当サイトで話題にすらしている。が、そこに紹介されている「スペシャライズド・スタンプジャンパー」なるMTBが、我々がよく知っている「スタンプジャンパー」とは似て非なるものであったとは、つゆとも疑うことはなかった。
よくよくみれば、明らかなデティールの違いが散見される。今となっては、なぜスルーしてしまったのか分からない。あえて言い訳をすれば、すでにスタンプジャンパーが世に出た後の露出であったため、完全に油断していた、としか言い様がない。
雑誌には、「モノステー構造のチェーンステー」がよく分かる写真が挙げられている。
当然、市販スタンピーのオーソドックスなチェーンステー構造(下)とは全く異なる。
自分のふがいなさに居ても立っても居られなくなった私は、「ニューサイクリング82年6月号」を入手し、試作車の詳細を眺めることにした。
トップチューブには「 KASHIWA」、ダウンチューブには「SPECIALIZED」のロゴステッカーが貼られている。
ブルムース型のハンドルは1982年からなので、普通のロードステムとアップしたフラットハンドル。
シート=トップチューブ間の肩当はアマンダのパスハンターを参考にした。
チェーンリングはTA 45×36×26で、フリーは14~30Tの5S、クランク長は180mmだった。驚くべきことに、すでにこの段階で左側チェーンステーには「Designed by Tim Neenan」のステッカーが貼ってある。(同じステッカーはセコイアにも貼られている。それを流用したのだろう)
ブレーキレバーは西ドイツのマグラ製で、シフトレバーはアマンダの「カニレバー」を使っている。
ブレーキはサイドに大きく張り出すMAFAC タンデムを使う。
サドルにスタンプジャンパーのロゴが入っている!!(後から量産純正品に付け替えたのだろうか?)
自社製MTBへ
試作車は自社のMTB「カシワ号」のプロトタイプとなった。非常に興味深いトピックであるので、カシワ号に関しては別稿を用意したい。
今野義はかく語りき
スタンプジャンパーの試作車を作ったことで日本最初期にMTB製作に関わった今野義氏は、その翌年のニューサイクリング83年9月号でMTBについての私見を述べている。
「あのカッコウが、一つのファッションだと思う訳ネ。つまりどういう作り方をしても、あのカタチというのはくずせないというのが有る訳ネ」
この時点で早くも、MTBのファッション性が一般ユーザーへの訴求力だと看破しているのは注目に値する。
スタンプジャンパーを量産したのは誰か?
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US本国のスタンプジャンパーのWIKIには、スタンプジャンパーは日本製とだけあり、日本のWIKIには「新家工業(大阪府大阪市)」製とある。しかし、スタンプジャンパーのOEM先に「東洋フレーム(大阪府橿原市)」を挙げる人も少なくない。
以下、「新家工業」と「東洋フレーム」両社について、思うところを書いてみたい。
新家工業
ツバメ自転車のブランドをもつ新家工業は、自転車屋としてよりもリム屋として有名である。MTB誕生以前からUSではBMX用リムの供給大手として知られており、初期のMTBにはアラヤ製BMX用26インチ・リムがしばしば流用されている。そのころすでに日本から大量の自転車パーツを輸入していたスペシャライズド・バイシクル・インポーツとアラヤの間になんらかのコネがあってもおかしくない。また、1982年、アラヤが突如、日本初の量産MTB、マディフォックスを世に出すが、スタンプジャンパーのOEM生産の経験が活かされたのだろう、と推測できる。
初期のMTBのリムに、アラヤのBMX用7Xがよく使われていた。
初代スタンプジャンパーも7Xを採用した。
東洋フレーム
一方、東洋フレームもUSでの認知度は低くなく、たとえば、ゲイリー・フィッシャーは、彼がロードレース選手だったころに使った東洋フレームをして、「彼らが作るバイクは完璧で美しい」とベタボメである。(マウンテンバイクスをフィッシャーと共同経営するチャールズ・ケリーのスタンプジャンパーに対する評価は、「リッチー車が泥の中を走っているくらいのハンドリング」と辛らつなものだった。もちろん、手強いライバルへの牽制が多分に含まれているのだろうが)
ちなみにリッチーは、1983年にフィッシャーのマウンテンバイクスと袂を分かった直後から、東洋フレームでのOEM生産を開始し、自身の名をつけたMTBの量産に励むことになる。その関係は長く続く。仮に、東洋フレームがスタンプジャンパーのOEMを行っていたのなら、(スタンプジャンパーがリッチーのコピー疑惑は濃厚である以上、)利益相反行為と言わないまでも、ちょっと微妙な話になるのではないだろうか。
いくつか証拠を提示しながら検証してみよう。
MADE IN JAPAN のステッカー
下の画像は初代スタンプジャンパーに貼られた MADE IN JAPAN のステッカーである。
Specialized Stumpjumper
また下の画像は、アラヤが英国に輸出していたマディフォックスのフレームに貼られていた MADE IN JAPAN のステッカーで、両者はあきらかに同一である。
ARAYA Muddy Fox (UK Export Model)
上で書いたリッチー車の東洋フレームによるOEM生産は、1983年から始まり、TIG熔接とラグ・ブレイズのフレーム2種が製作されている。ラグ車はすべてカナダのリッチー・ディーラー、ロッキーマウンテン社でリッチー・ロッキーマウンテンとして売られた一方、TIG車はすべてUS国内市場向けとなった。以下の画像は1984年式リッチー・ロッキーマウンテンに貼られた MADE IN JAPAN のステッカーである。上記のものとは異なっている。
1984 Ritchey Rocky Mountain
参考までに「センチュリオン」と「ダイアモンドバック」のフレームに貼られた MADE IN JAPAN ステッカーもあげておこう。スタンプジャンパーに貼られたステッカーと同じものである。(車台番号から同じ工場(N)における、84年および85年の製造と分かる)これらのフレームを作っていたのはアラヤだろうか?(追記:アラヤであることは判明した) Centurion / 1985 Diamondback Apex |
ラグ形状による考察
1982年半ば=83年モデルでスタンプジャンパーのフレームに大きな変更があった。TIGの突き合わせ熔接が廃され、ラグを介するロウ付け(ラグ・ブレイズ技法)となったのだ。一見、技術的な後退に思えるが、ニーナンは、本来ラグ・ブレイズで行きたかったが、(何らかの理由で)できなかった。その後、ラグブレイズで製作できる環境が整ったため、そうしたと述べている。
82 model (TIG welded) / 83 model (Lugged)
TIGからラグへの変更は、アラヤのマディフォックスにおいても符合する。マディフォックスの82・83年モデルはすべてTIG熔接だが、84年モデルよりラグブレイズのモデルが登場している。
そこで、83年式スタンプジャンパー、84年式マディフォックス、84年式リッチー・ロッキーマウンテン3車のラグとを比較をすれば、なんらかのヒントが得られるのではないかと思い、そうしてみる。
1983 Stump Jumper
1984 Ritchey Rocky Mountain / 1984 Araya Muddy Fox
見た目だけで判断すれば、スタンプジャンパーとマディフォックスに近似性を、リッチー・ロッキーマウンテンは他2者とは異なる傾向を感じ取れるのではないだろうか。
と書いてみたが、実のところ、スタンプジャンパー、マディフォックス、リッチーのすべてで丹下製チューブ(&ラグセット)が使われている。マディフォックスはフレームに貼られたデカールで丹下製チューブの使用は明らか。スタンプジャンパーは、デカールで自社チューブセット「スペシャルシリーズ・ツーリング」の使用を主張しているが、その供給元は丹下であった。リッチーは当初、コロンバス製チューブを使っていたが、まもなく自身の名を持つチューブセットを持つことになる。その製造は丹下であった。
フレーム・シリアルナンバーからの考察
スタンプジャンパーの車台番号(Serial Number, S/N)を集めてみた。
T刻印
T2C00***
このフォーマットの意味は以下の通り
T = 製造業者:TOYO
2 = 製造年:1982
C = 製造月:A=January, B=February, C=March・・・
以下5桁は製造台数の連番
81年および82年モデルがT刻印の車台番号を持つ。製造業者が東洋フレームと判明したとはいえ、この車台番号のフォーマットはアラヤが採用している形式であり、アラヤが無関係と思えない・・・実のところ、アラヤのマディフォックスも、東洋フレームがフレームの製造を担当していたとの話も耳にしている。つまり、東洋フレームはアラヤの下請け・・というより高品質なフレーム製造を請け負う協力工場だった、と捉えるのが自然であろう。
スペシャライズドからスタンプジャンパーの生産をアラヤが受注し、アラヤはフレーム製造を東洋フレームに振った。東洋から納品されたフレームを完成車へアッセンブルするのはアラヤ、という流れはいかがだろうか?
M刻印
上と同じく「アラヤ・フォーマット」。画像の車台番号から、なんと62,000台以上も生産していることがわかる。
M = ?
2 = 1982年
L = 12月
・82年半ば(83年モデル)でT刻印からM刻印に切り替わる。
・T刻印はすべてTIGフレーム、M刻印はすべてラグフレームであることは分かっている。
・M工場とは?三木製作所(堺市)?ま、まさか、メリダ(台湾)?
M = ?
3 = 1983年
B = 2月
翌83年もM工場で作られている。上のフレームには”Japan”のステッカーが貼られていることが確認できた。Mはメリダではない。
ただ、以前の”MADE IN JAPAN” ステッカーとはデザインが異なる。アラヤは関わっていない?しかし、車台番号のフォーマットはアラヤ形式だ!(追記:この”Japan”ステッカーは一時期のアラヤ、それも三木製作所製モデルが使用していたことが判明した。M工場はやはり、三木製作所で良いようだ)
このアラヤ形式の表記フォーマットは83年生産車まで使用されている。(84年刻印のモデルもあるが、下で示す通り、残務処理的にごくわずかが作られたに過ぎない)さらに、リムには、83年モデルまでアラヤ製が、84年モデルから87年モデルまでは、スペシャライズドがリリースするサターン・リム(ウカイ製)が採用されている。
Saturne とされた。さらに Saturae に変更された。
以上の事実から、『スタンプジャンパーにアラヤが関わっていたのは83年モデルまで』というのが私の結論である。
ここでMOMBAT調べのS/Nデータを紐解いてみよう。
-------------------------- T1J0079 1981年10月 (1) -------------------------- T2F00638 1982年 6月 (2) M2G29792 1982年 7月 (3) -------------------------- M2H31055 1982年 8月 (4) M3H67936 1983年 8月 (5) -------------------------- M3L11019 1983年12月 (6) -------------------------- M4A00195 1984年 1月 (7) M4F00238 1984年 6月 (8) -------------------------- |
(1)、最初期ロットの125台のうちの1台。
(2)(3)、1982年半ばで「T刻印」(東洋製TIG車)は終わり「M刻印」(三木製ラグ車)に切り替わる。
(4)(5)、同じ8月までの生産台数を比較すると、31,055台(1982年)から67,936台(1983年)と倍増している。
(6)、1983年末で11万台を越えている。(当初の生産台数には4桁が割り振られ、それが5桁に増やされたが、それも溢れてしまっている)
(7)(8)、1983年モデルいっぱいで生産工場は他に移され、1984年は残務処理的に、半年でわずか238台しか作られていない。
プラザ合意(1985年9月)後の円高で、USブランドのOEMの多くは日本製から台湾製に舵を切り替えることになったが、これらすべてはプラザ合意前に起こっていることに注目されたい。
アラヤ・フォーマットに沿わない車台番号●”84 ****”、”85 ****”という形式。これは1985年モデル「スタンプジャンパー・チーム」で採用されているのを確認した。最初の2桁は製造年で間違いない。(追記:このフォーマットは、1980年代半ば頃に「東洋フレーム」で使われていたものと判明した)
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スペシャライズド・アレー&セコイア上にも書いたが、スペシャライズドのロードバイク、アレーとセコイアの生産はシクロウネで始まっている。スタンプジャンパーの試作車もシクロウネの仕事だった。そこで、アレーとセコイアのS/Nの変遷を眺めることで何かが見えてくるかもしれないと思い、そうしてみる。 最初期のシクロウネ製アレー(赤)とセコイア(青)のS/Nは以下の通り。そっけない二桁の数字がポンチされているだけだ。(アレーには「MADE IN JAPAN」のステッカーが残っている!) S/Nのフォーマットから、(ツーリングバイクで、比較的生産台数の多かった)セコイアの製造は1982年にはアラヤに変わっていることが伺われる。これは1981年からのアラヤがスタンプジャンパーのOEMを引き受けた縁ゆえと思われる。また、1984年あたりで関係が切れるのもスタンプジャンパーと同じ。(ロードレーサーであり、生産台数の少ないアレーは引き続き、シクロウネの仕事だったようだ) 例の「MADE IN JAPAN」ステッカーが貼ってある! 日本製であることを示す「JAPAN」のステッカーは張られているが、S/Nは、解読不明の7桁の数字列に変わってしまっている。たいてい生産台数に下5桁が使われることから、上2桁が生産年(00=2000年)だろうか?(そうであれば、東洋フレームのフォーマットと同じとなる) ティム・ニーナンは、あくまで設計は自分で、生産はシクロウネと主張している。 「セコイヤ、アレー、エクスペディションのフレームは私が設計した。マイク・シンヤードと私は、生産準備のために4週間も日本に滞在した。そう、今野義はアレーとセコイヤを何台も作っている。それらは美しいフレームだった。しかし、初のロードテストのためにバイシクリング・マガジンに送ったセコイアは、私が作ったものだ。」 1983年から1990年までスペシャライズドのR&Dディレクターの座にあったBBことブライアント・ベーンブリッジ(Bryant Bainbridge)はこう述べている。 「最初のデザイナー、ティム・ニーナンはエクスペディションを設計した。セコイアにも責任者として関わっているはずだ。(ニーナンに面識は無いようだが、「設計した」とは言っていない)初期のアレーのほとんどは今野義が作ったということは良く知られているが、セコイヤはそうではない。1983年、私とジム(後述)が仕事に就いた時には、東洋フレーム(実際はアラヤのコントロールで三木製作所)に製造は移されていた。」 「次のデザイナーは。ジム・メルツ(Jim Merz)で、80年代半ばのアレーでその名を上げた。1984年モデルのアレーSEはミヤタで製造された。しかしミヤタのように大きな会社は柔軟性に乏しく、まもなく小さい工房(東洋フレームか?)に仕事は移された。」 「ラグ&スチールフレーム時代最後のデザイナーは、マーク・ディヌッチ(Mark Dinucci)だ。アレー Pro、アレー Comp の責任者で間違いない。プラザ合意後の円ドル為替は深刻で、1986年、アレーとシリウスを除くすべてのモデルの生産を台湾(ジャイアント)に移した。(メリダでは無かった!)いよいよ円に対するドルの価値が以前の半分にまで下落した時、アレーもシリウスも台湾生産となった。マーク・ディヌッチは、文字通り、台湾の工場に1か月間住み込んで、生産技術指導を行った。」 |
東洋フレームはかく語りき
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東洋フレームは自社HPに「実績」として過去の取引先を公開している。1973年にナショナル自転車協力工場としてスタートとあるのは興味深い。http://toyoframe.com/about-toyo/history/
以下、関連部分のみ引用する。
そこにはアラヤもスペシャライズドも記載はない。もちろん、契約上、公開していないだけかもしれない。それよりなにより、この公式年表に記載された年号などに疑問が生じざるをえない。
KUWAHARA
1978年に「KUWAHARA~EVERYTHING BICYCLE」とある。「KUWAHARA」は言わずと知れた日本のクワハラで、「EVERYTHING BICYCLE」は、ハーウィ・コーエン(Howie Cohen)氏率いるエヴリシング・バイシクルズ(EVERYTHING BICYCLES)社のことであろう。クワハラのUS代理店となったエヴリシング・バイシクルズは、BMXのクワハラを世界的なブランドにした立役者として伝説的な存在だが、両社の関係は1979年からのこと(とされている)・・・映画「E.T.」の公開に至っては1982年であるし・・・(BMX界のことはMTB界のこと以上にわからない(笑))
RITCHEY
1978年と1980年に「RITCHEY」が2つあるのは、どういうことだろうか?リッチー初のMTBは1979年のことゆえ、1978年時はロードバイクのフレームを請け負ったことになる。1978年当時、まだ個人商店の規模にあったリッチーが、フレームの海外OEM生産に乗り出す必要があったとは考えにくい。
ROCKY MOUNTAIN
さらに1978年に「ROCKY MOUNTAIN」とあるが、当時まだロッキーマウンテンは設立されていない。1978年は、創設者ジェイコブ・ヘリボーンが前身となる自転車小売店ウエストポイント・バイシクルズ(West Point Bicycles)をバンクーバーで経営していた頃である。ようやく、ニシキのロードバイクにファットタイヤ、バーハンドルとサムシフターを装備した”MTBの原型”を製作するに至った頃でもある。その後、1980年、ウエストポイントはリッチーのカナダ代理店となり、満を持してMTBメーカー、ロッキーマウンテンを設立したのは1981年である。この頃、ジェイコブはリッチーと共に日本に行って、日本の自転車産業との関係を構築している。その結果生まれたのが、カナダ初のMTB、1982年ロッキーマウンテン・シェルパ(Sherpa)である。そのフレームは東洋フレーム製であった。
マウンテンバイクカスタムファイル(スタジオタッククリエイティブ/1995(平成7)年より La route 2020年4月24日付の記事、「ビルダー4名が語る、金属フレームのこれから」に東洋フレームの2代目、石垣鉄也氏が紹介されている。 そこには「アメリカのMTBブーム時には「スペシャライズド」や「ゲイリー・フィッシャー」、「リッチー」などのフレーム制作を請け負い、有名ブランドを陰で支えた」とあった!!残念ながら、ブランド名以外の時期などの記述は無し。 |
アラヤ関係者はかく語りき
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アラヤ・マディフォックス物語
CAMBIO工房氏のブログで「アラヤ・マディフォックス物語」なる記事があることを知った。当時の関係者の発言は貴重。早速、私も有料会員登録をして購読することに決めた。(以下の青字部分は、アラヤ・マディフォックス物語からの引用である)
記事は、アラヤを40年以上勤めあげた「内藤常美」氏へのインタビューをまとめたもの。内藤氏は「1981年入社」で、「1982年夏にサイクル事業部に異動」したときには「マディフォックス開発は最終段階」だったとのこと。
アラヤによるスタンプジャンパーOEMの顛末を語るにはわずかに遅い世代の方であった。その仕事は、内藤氏の上司である「マウンテンバイクを作った男」、「印牧(かねまき)昭治」氏および「アラヤの輸出自転車の開発を長年携わって」きた「山口登」氏あたりによって成されたのだろう。
それでも貴重な一次情報である。少しでも関係あるトピックを拾っていきたいと思う。
マウンテンバイクを作った契機
「アラヤはなぜマウンテンバイクを作ったのか」については、自社のBMX用リム「7X」が、「間接的にではあるが」、「きっかけとなった」としている。「7Xの26インチ」が、「マウンテンバイク黎明期のトム・リッチー、ゲイリー・フィッシャー、チャーリー・カニンガムに見いだされ、彼らの作品に使われていたらしい」とあるが、「らしい」ではなく明らかな事実である。
「リッチーやフィッシャーがヒッピーのような恰好で心斎橋にあるアラヤのリム営業部を訪ね、マウンテンバイクの話を持ってきていた、と当時を知る大先輩によく聞かされていた」とある。(フィッシャーはともかく、リッチーはヒッピーじゃないような気がするが・・・)訪問はアラヤのMTB開発以前というから、1982年の有名な日本行脚・・・リッチー、フィッシャー、ジェイコブ・ヘリボーン(ロッキーマウンテン)らがスタンプジャンパーの成功に触発されて来日したときよりも前となろう。1982年以前の日本行きについては、饒舌な当人たちも話題にしていないが、内藤氏の時系列の記憶違いの可能性も無きにしも非ず。しかしそうであれば、以下の発言は時系列的に矛盾したものになってしまう。追記:「MTBエンスー講座」(1999年ネコパブリッシング)中の「MTB発展の系譜」に、「’80 リッチー、フィッシャーら来日 リッチーらは当時世界でも最高水準として評価の高かった日本のメーカーにパーツの生産を依頼に全国行脚。」との記述がありました。
「社内では種々意見があったが、リッチー、フィッシャーの訪問をきっかけとしてマウンテンバイクの開発が本格的に始動。また7Xからマウンテンバイク用としてさらに進化したリム開発も行われた」とのことだが、これは字面をそのまま受け取ると、「アラヤは独自に自社製MTB開発に踏み切った」ということになる。そのきっかけは、リッチー&フィッシャーであっても、決してスペシャライズドではない。本当か?
一体、スタンプジャンパ-はどこに行ってしまったのか?スペシャライズドへのOEMは、アラヤ的に無かったことになっているのか?訴訟大国のモンスター、スペシャライズドへの忖度なのだろうか?所詮、日本の(元)企業人。すべてを包み隠さず話してもらうことは、やはり難しいのか・・・
スペシャライズド・スタンプジャンパー・チーム
文中、スタンプジャンパーへの言及は以下のみである。
(1984年某日、サンツアーUS社長・河合一郎氏に誘われ見物に行ったサンフランシスコ郊外オークランドで行われたレース会場にて)「参戦していた選手が使っていた、開発中の次年度(1985モデル)スペシャライズド・スタンプジャンパー・チームを見ることになる。詰まったリヤセンター、立てたシートアングル、少し幅狭なハンドル。それまでにはなかったシャープなマウンテンバイクを見た。なぜだかわからないけれど上下ブリッジにドロヨケ隠し止台座もついている。美しいラグと各所のフレームワーク。ランドナー好きも納得できる綺麗なマウンテンバイクに目を奪われた。著名な日本のビルダーによる製作だったのかもしれぬ。」
私の不確かな調査ではアラヤ製スタンプジャンパーは1983年までと踏んでおり、さすがに自社製品を自画自賛しているわけではないのだろう、と信じたい。しかし、唐突に「日本のビルダー」なんてフレーズを挟むことに違和感を感じる。何か知っていると言わんばかりだ。「著名な日本のビルダーによる製作だったのかもしれぬ」というのは、「著名な日本のビルダーによる製作である」と読み取るべきか。
以下、まったくもって私の推測に過ぎないが・・・この時見たスタンプジャンパーは、従来通り東洋フレーム製だった!しかし、アラヤは(未知の2社を取り持った功績があるにもかかわらず)、間で中抜きしているだけとみなされ、取引からハブかれてしまっていた。(中長期的な関係を重んじる日本人は、こういう短絡的な頭越し行為は避ける傾向にあるが、目の前の利益を最大化したがるUSの連中は普通にやる)スペシャライズドと東洋フレームとの直接取引で生まれたスタンプジャンパー・チームへの愛憎半ばの恨み節とか?
追記:スタンプジャンパー・チームは東洋フレーム製であることが判明した。
アラヤのUSむけOEMブランド
なんとアラヤ社員が1983年の「パールパスツアー」に参加していた!
マウンテンバイクの実際の使用状況を調査するために、米国マウンテンバイクツアーに参加することを印牧氏が提案した。
1983年に印牧氏が参加したクレステッドビュートのパールパスツアーには、まだまだフロンティア制作のワンオフ車が多い中、参加者250名のうち50台以上がすでにアラヤ製量産車であったとの出張報告書がある。
「アラヤ製量産車」、分かりづらい表現だが、アラヤがOEMしている他ブランドのバイクのことを言っている。それでも、この時点で20%もの高い占有率になっているとは驚きだ。間違いなくスタンプジャンパーはカウントされているに違いない(笑)
記事中、内藤氏が、アラヤのUSむけOEMブランドを挙げているので、まとめておこう。かなりの数に上る。
■ スペシャライズド
文中、「日本の自転車商社を通じて輸出できた」とだけある。商社は「タイオガ」を擁する神戸の「マルイ(オリエンタル貿易)」だろうか?私は、何かの記事で「スペシャライズドのマイク・シンヤードはマルイにとてつもなく世話になっている(大恩がある)」と読んだことがある。
■ リッチー
■ ロッキーマウンテン
■ センチュリオン / ■ ダイアモンドバック
US大手ディストリビューター WSI (Western States Import)が擁するブランド。
■ SR
栄輪業のことだろうか?
■ ユニベガ
■ ジェイミス
■ プジョーUSA
■ ノルコ
■ USコルナゴ
■ BRC
カナダのブランド
■ クワハラ
ETレプリカモデル(BMX)はアラヤで開発した。(と内藤氏は述べられているが、当稿コメント上で異論が上げられている。興味のある方は2022年7月8日のコメントをご参照のほど)
■ FOCUS
現在のドイツブランドとは関係のない、アラヤの直営ブランド。リム販売先との軋轢を考慮してアラヤ名義を使用しなかった。(命名は、当時流行った写真雑誌「フォーカス」にあやかった、と衝撃告白しているが、日本と同じく歴史ある「スワロー」ブランドで売ればよかったのに!)
フルラインナップを有し、マウンテンバイクは「MB-400」がカタログに載っている。
ヨーロピアンテイスト溢れるスタンプジャンパー
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前の稿でも何度か引用させてもらっているドキュメンタリー映画「クランカーズ」(2007年)にマイク・シンヤードも出演している。当然、MTBを量産して世に広めたとの文脈で登場するのだが、後からやってきた部外者(シンヤードはクランカー乗りではなかった)が先駆者らが開拓したものをまんまとかっさらっていったという否定的なニュアンスは匂わされている。
まず、スタンプジャンパーは日本でリッチー車をコピーして作った、とパイオニアたちにこき下ろされる。
その直後、「各国からパーツを集めて作ったんだ」と恥ずかしげもなく強弁する滑稽なマイク・シンヤードの図、となっている。
続く映像は見ての通り。シンヤードにとって「各国」とはヨーロッパ各国のことなのだろう。日本の「に」の字も出てこない。(製作側の意図的な編集ではないと信じたい)
なお、ここでの笑いどころは、TAのクランクもオートバイ用を流用するレバーも、スペシャライズドが独自に世界から探してきたパーツなどでは決してなく、先達の定番品をそのまま倣ったに過ぎない、ということだ。
TAのクランク&チェーンホイールについては、「(壊れやすく)もっと良いものがあるのに、なぜだかマリンのクランカー乗りたちはTAを好んだ」と評される程度のものである。きっと彼らが(シクロクロス時代から)使い慣れたパーツであったのだろう。
ただし、レバーに関しては、工夫があったといえよう。マリンの連中はマグラ製を使ったが、シンヤードはトマゼリ製を選んだのだ(笑)。(どちらもオートバイパーツ由来であるが、トマゼリの方が低コストだったらしい)
参考までに、1982年モデルのスタンプジャンパーは以下のパーツを使用している。
Headset | Specialized sealed steel |
Bottom Bracket | Tange |
Rear Derailleur | Suntour ARX |
Front Derailleur | Suntour ARX |
Hubs | Suzue sealed bearing |
Rims | Araya 7X 26 x 1.75″ |
Spokes | DT Stainless Steel 3 cross |
Tires | Stumpjumper |
Brakes | Mafac Tandem |
Brake Levers | Tommaselli Racer |
Crank | TA Cyclo Tourist 26/36/46 |
Pedals | MKS Lyotard |
Shifter | Suntour Mighty |
Handle Bar | Specialized alloy rise |
Grips | Oakley3 |
Stem | Specialized BMX style 4 bolt |
Freewheel | Suntour 5speed 14/28 |
Chain | Sachs Sedis |
Saddle | Avocet Touring I |
Seat Post | Sakae Ringyo LaPrade |
この中でヨーロッパメーカーのパーツは、ブレーキ(マファック)、ブレーキレバー(トマゼリ)、クランク(TA)、スポーク(DTスイス)、チェーン(ザックス)程度。映画でそれを目いっぱい主張したわけだ。それ以外のすべて・・・フレームは今さら言うに及ばず、BBは丹下、ディレーラーはサンツアー、ハブはスズエ、リムはアラヤ、ペダルは三ケ島、シートポストは栄、と日本メーカーが占める。(スペシャライズドの自社ブランドパーツはまず日本製OEMであろう)
まあ、マイク・シンヤードも自転車マニアによくいる、ヨーロッパかぶれの見栄っ張りの俗物、ということなのだろう。いや、もっと重症かもしれない。ヨーロッパからパーツを集めて作り上げた自らの処女作、というファンタジーを正当化するために、現実を捻じ曲げようとさえしている。日本製パーツでさんざん儲けさせてもらっても心は憧れのヨーロッパ・・・今は日本が台湾に置き換わっているだけなのだろう。
それにしても、業界の最重要人物として確固たる地位に君臨するマイク・シンヤードは、この映画の中の自分の扱いを観てどう思ったのだろう?映画のプレミア会場にノコノコやってきてすらいるわけで、少なくとも公開まで観ていなさそうだなあ。
追記:
バイシクリング誌83年5月号から抜粋した本当に笑える一節。『スペシャライズドは、日本の工場で製作したオフロードバイクを、昨年始めより最初に提供し始めた製造業者である(傍線上)』という各社のMTBを紹介した記事中の文章に対し、下の方に注釈(傍線下)が入っている。『スペシャライズドから早速の指摘が以下の通りあった。フレームと多くのコンポーネントは日本製であるが、他のコンポーネントはフランス、イタリア、スイスからのものである。ホイールの組み立てと最終組み立てはカリフォルニアで行われている。』
おそらく、記事のゲラを読んだ(記事への車両&情報提供者であり、広告主でもある)シンヤードが編集部に訂正しろとクレームをいれたのだろう。(編集部は記事を訂正することなく注釈で対応した。それも「多くの」という形容詞をしっかり入れた上で)
これで記事が出た1983年の頃から映画が製作された2007年までの25年間、シンヤードの考えは微塵も変わっていないことが確かめられた。(しかし、コイツ、いまだにせっせと日本の工房にフレームを発注しているんだよね。大好きなヨーロッパか自分の国のビルダーに依頼すれば、こんな卑屈な思いに囚われなくて済むのに!)
さらに追記:
スタンプジャンパー初見参時の広告を上げるのを忘れていた。この時点で、しっかり書かれていたの分かる。(右下のオーバーオールとハイッソクスでキメた人、若き日のニーナン?)
この部分・・・
(訳)強いものだけが生き残る ゆえに我々は妥協しませんでした。一から造り出すことから始めたのです。:先鋭的なジオメトリーと寝かされたフォークを持つクロモリフレームは専用品です。マファック製カンチレバーブレーキ、トマゼリ製オートバイ用レバー、ラチェット式サムシフター、TA製3速クランクセット、サンツアーARXコンポーネント、DTステンレススポークを組み込んだホイールスミス製”ディッシュレス”アルミリム、高精度シールドベアリング、オーバーサイズ・アクスル。あまりにエキゾチックなパーツ群は、フランス、イタリア、日本、スイス製です。 ベストなものが不十分だったら?自らで作りあげました。インベスメントキャスト製法のフォーク・クラウン、がっしりとした4点留めステム、接触式シールのヘッドセット、クロモリ製ハンドルバー、アグレッシブな26インチ・ノビータイヤは自社製です。 |
嘘は無いが、ミスリードに満ちた文章といったところ・・・ところで、スタンプジャンパーの最初期モデルだけ、リムはアラヤ製ではなく、ホイールスミス製だったのでしょうか?
Wheelsmith
確かに、初代スタンピーの初期モデルには、リムに “Wheelsmith” のステッカーが貼ってある。一方、リムはアラヤの7Xに見える。・・・シンヤードは『ホイールの組み立てはカリフォルニアで行われている』と言っているから・・・ホイールスミスとはホイール・アッセンブラー?ステッカーはアラヤ刻印の上に貼っている?
英国から痛恨の一撃
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ロンドンにあるデザインミュージアムの学芸員、アレックス・ニューソン(Alex Newson)による「世界を変えた50台の自転車」(2013年)という本には、衝撃的な事柄が、しれっと事実として書かれている!!
製作者が「Tom Ritchey & Specialized」とされているのだ!!
本文、第2段落もなかなか効いている。
「スタンプジャンパーは、トム・リッチー(1956年~)、マウンテンバイクのフレームを最初に作りだしたひとり、によって作られたカスタム自転車を基にしている。スペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツは、USのメジャーブランドであるが、トムのデザインを取り込み、量産メーカーと市販コンポーネントを使って、よく似たマシンを作りだす方法を考案した。広範囲の調査の後、適切なコンポーネントが、イタリア、スイス、フランスなど世界中から集められると、組み立てのために日本に送られた」
第2段落・前半はマイク・シンヤードが卒倒、憤怒しそうな書き様だが、後半はマイク・シンヤードの Made in Europe のイリュージョンそのままであるのが興味深い。(英国人と言えどもヨーロッパ人であり、マイクのイリュージョンは、そのままアレックス・ニューソンのイリュージョンでもあるのだろう。我々は、あのスタンプジャンパーをコンポーネント供給面で支えたのだ!と)
46 comments
KAZUHIRO N says:
7月 13, 2022
追記
懐かしくなってgoogleマップで散策してみたらありますねw
https://i.imgur.com/KZz3r0f.png
確かにらーめん屋さんになってます。
KAZUHIRO N says:
7月 13, 2022
Satoshi Yoshizawa様
WildCat
恐らくそこはMTBメインになった2店目の方かと思います。
初代の店舗は建物ごと無くなっているんじゃないかと。
私の本籍は初代店舗も真裏なのです。
Satoshi Yoshizawa says:
7月 11, 2022
私もワイルドキャットは良く知っておりますよ。懐かしいですね。今でも跡地前を車で通りすぎることは多々あります。建物は今でも残っていて、今はラーメン屋だったかな・・・が、営業しています。
> ETレプリカモデル(BMX)はアラヤで開発したという。
この下りは辞めて貰えないでしょうか?
KAZUHIRO様の意見があることを追記しておきました。
KAZUHIRO N says:
7月 10, 2022
Satoshi Yoshizawa様
BMX自体が日本に入って来るのが遅く
日本では82年にE.T.によりBMXに火がつき、大阪界隈から全国区になり
その売り場ベースが即MTBに変わった印象です。
私自身は81年頃にBMXを知り、東京の代田にありました近所のWildCatに買いもせずに通っていました。
83年頃にようやくmongooseを手に入れるのですが、即盗まれましたw
当時出ていたKUWAHARAのLaserLiteというのが欲しかったんですけど、そんなに小遣いは直ぐに溜まるわけもなく
大人になってから少しづつ買い集めた感じです。
WildCatも84年頃から店舗を大きくしてMTBメインの店に変わって行きてまして、日本においてはBMXもMTBもほぼ同世代に人達に馴染みが有ると思います。
ただBMXより更に高かったので手は出ませんでしたね。
MTBはビーパルなんかのアウトドア系の人達も呼び込みましたので、BMXよりもユーザーも多かったんじゃないでしょうか。
現在OLDBMXマニアの人達が普段乗りに少し大きい車体へとMTBにも行き始めております。
共通パーツ、レアパーツも一緒だったり馴染みのあるが多いのです。
私自身は今のところ情報を知ってるだけでいいかな?とは思っていますが、手にする機会があったら分からないですねw
最後に申し訳無いのですが、
■ クワハラ
ETレプリカモデル(BMX)はアラヤで開発したという。
この下りは辞めて貰えないでしょうか?理由はご説明した通りです。
Satoshi Yoshizawa says:
7月 10, 2022
KAZUHIRO様
『○○○ブランドのあの自転車は、実は△△△が作っていた』という事実は、自転車マニア以外にはどうでもいい話なので、自転車マニアの誰かがきちんと記録を残しておかないと、当時の関係者が亡くなってしまえば、真相は闇の中・・・とは私も思うところです。
KAZUHIRO様も述べられている通り、日本人の多くは、『●●●社の製品は、●●●社の社員の手によって設計された後、●●●社の社員の手によって開発され、●●●社の工場において、●●●社の社員によって作られている』と単純に思いがちで、実際、日本のモノづくりはそのように動いて一定の成功を収めてきたのですが、もはやそういった素朴な業態は成立しにくくなっています。
自転車産業は、(例外的に)かなり早い時期から『ブランドだけがすべて』という、現在の製造業で主流のビジネスモデル(代表例:アップル製品)を踏襲していたことは注目に値しますが、その背景・・・『○○○ブランドのあの自転車は、実は△△△が作っていた』という事実は、私の興味の対象であります。
KAZUHIRO様のターゲットはBMXであり、私はMTBゆえ、今のところ、接点がありそうで、ないような、いや、あるような・・・という状況ですね。今後も何かお気づきの点があればご指摘いただけましたら幸いです。
最後に『アラヤがET市販車の開発をしたので東洋という流れ』という短絡的な推測は、当方、一切書いておりません。ご安心ください。
KAZUHIRO N says:
7月 9, 2022
ご返答ありがとうございます。
こちらのSatoshi Yoshizawa様のブログは東洋フレームの件で検索をして引っかかりMTB関連を一気読みしたので、どの稿内に出て来た話かはうる覚えなのですが、
アラヤがET市販車の開発をしたので東洋という流れは違うのかな?と思った次第です。
“ETレプリカモデル(BMX)はアラヤで開発したという。”こちらは厳密に言うとちょっと違いまして、ET REPLICA名の車体は東洋生産でして別に存在してます。形も仕様も全く違く。アラヤが開発したのはツバメ自転車のBMXタイプ子供用20インチ自転車という事なのです。KUWAHARAとEverythingの両方からライセンス許可を得て独自に日本国内用にアラヤ企画で生産販売された物です。
更に細かい話になると先日お送りしましたApolloという車体と少しだけフレームパーツが違いまして、この商品に関しても完全にアラヤの開発なのか?という疑問点も有ります。
そして、とても紛らわしいのがEverything-KUWAHARA-東洋フレームで作った市販用のE.T.車両も日本国内での販売をアラヤが請け負っているという事です。
ご返答の様に、こちらが引っかかった事と、そちらの趣旨としては特に問題は無い話なのかも知れません。
東洋フレームに1978年からKUWAHARAとEverythingの名が連名で記載されているのは
BMX以前よりKUWAHARAの他の車種や、タンデム自転車等をEverythingに輸出していたからです。
BMXは1979年初頭からEverythingのリクエストにより設計開発が始まってまして、試作から製品生産まで東洋フレームで行なっています。
1979年の春頃からフレームだけ先行でEverythingで販売をしていたようで。
1979年3月の時点で260台目というフレームが確認出来ています。
商品名が付いた完成車として正式に出たのは1979年9月頃から(KE-1,KZ-1)のようです。(販売元は全てアメリカEverything)
Everything-KUWAHARA-東洋フレームのタックは1985年まで続きました。
まあ殆ど、こちらの趣旨に対しては余談な話でしたね。
当事者の方々にこの辺の生産背景の話が直接出来たら面白いんですけどね。
更に詳しい話はこれ以上書けないので残念ですが以上になります。
Satoshi Yoshizawa says:
7月 9, 2022
コメントありがとうございます。
BMXのE.T.モデルに関する考察を興味深く読ませていただきました。
日本製自転車が、70年代初頭から80年代半ばまで、日陰の存在(OEM供給元)ながら、US市場で隆盛を誇ったこと、ある経済政策(プラザ合意)が失速の引き金となり急速に凋落、その後の回復は無く、あえなく消滅したこと・・・は、ちょっとした歴史物語だと私は思っています。
永遠に続くと思われた栄華も、今になって振り返ってみれば、わずか20年にも足りない期間でした。日本の座を奪った台湾製力は30年以上続いており、今のところ陰りを見せてはいません。
私は、このあたりのことをMTBの歴史に絡めて、いろいろ書きたいと思っています。
>お伝えしたかったのは主に、このブログ内容にあるアラヤのE.T.の話は殆ど関係が無いかと思います。そこからアヤラ企画のフレームを推測して行くと追及は遠くなってしまう可能性があると思んです。
ここが分からないのですが、この稿では「スタンプジャンパーはリッチーのコピーである」という証拠を挙げようと情報を集めており、私は(この稿以外でも)BMXへのアプローチは何ら取っておりません。(80年代における日本製自転車の栄華の一例として、クワハラのE.T.モデルを取り上げたりしておりますが)
KAZUHIRO says:
7月 8, 2022
ご連絡頂けなかったので、ここの掲示板に記載出来る事だけ書き残しておきます。
アラヤで開発されたのは、ツバメ自転車APOLLO名義で出したBMXでして
一般的に言われているE.T.市販車とは少々違います。
安価な価格とアラヤ系列の流通量で日本では馴染みがある方も多いと思いますが。
形状は似ていてもBMXタイプの子供用20インチフレームでした。
これは当時、日本国内とカナダでしか販売されませんでした。一部東南アジアにも輸出されていたみたいです。
こちらのアラヤE.T.の車体は全て”J”から始まっています。”J”から始まる工場は何処の工場かは私は知りません。
EVERYTHING BICYCLEでは、アラヤ企画のE.T.は販売されていません。
Apollo
https://bmxmuseum.com/bikes/search?company%5B%5D=50&model=1584
Apollo E.T.
https://bmxmuseum.com/bikes/search?company%5B%5D=50&model=6918
https://bmxmuseum.com/bikes/kuwahara/118455
https://bmxmuseum.com/bikes/kuwahara/65661
MADE IN JAPAN シール
https://bmxmuseum.com/bikes/kuwahara/104232
JE21459
KUWAHARAが企画、開発した市販のE.T. BMXはこちらです。
1982 KUWAHARA E.T. (開発番号Model:3003)
https://bmxmuseum.com/bikes/search?year-start=1982&year-end=2023&company%5B0%5D=50&pg=2
https://bmxmuseum.com/bikes/kuwahara/49797
1982年から市販版E.T.として全世界で販売されました。
E.T.市販モデルとして売られる以前に1981年から東洋で生産していたKYZというフレームを使用しています。
https://bmxmuseum.com/bikes/search?company%5B%5D=50&model=1587
この当時のパーツ構成にはアラヤは絡んでいません。リム系統はUKAIでした。
(KUWAHARAはET市販モデル以外一貫してUKAIを完成車に使用しています。)
KUWAHARA BMXのパーツ構成を決めるのは主にKUWAHARAではなくアメリカのEVERYTHING BICYCLEの方でした。
E.T.市販版は全て”T”から始まる東洋生産です。(恐らくフル稼働だったでしょう)
こちらのモデルにはアラヤの7Xが使用されているのですが
アラヤの7Xが付いた車両は日本国内で販売された車体のみです。
ちょっとややこしいのが、こちらの日本国内の販売流通はアラヤが行なっています。
https://i.imgur.com/9ymL2KZ.jpg
お伝えしたかったのは主に、このブログ内容にあるアラヤのE.T.の話は殆ど関係が無いかと思います。
そこからアヤラ企画のフレームを推測して行くと追及は遠くなってしまう可能性があると思んです。
共通しているのは”T”で始まる東洋フレーム生産だったという事です。
当時のアラヤ企画E.T.は全て”J”なのです。
こういう話はOLD BMX界隈でもあるのですが、
アラヤ製と言うとアラヤがフレーム生産工場を持っていて作っていたと勘違いされる方々と似ていて
KUWAHARAでは”T”はタンゲ工場で作られていたフレームと勘違いしている人が多くいます(そう思っている人の方が現在も多いくらいです)
ちなみにKUWARAHAの場合は1981年1月より大阪に自社のフレーム工場を立ち上げているので”K”品番というのも”T”品番と同じくらいの数が存在します。(こちらは1981年から1984年まで、それ以前は全て”T”品番)
これ以外にKG(1981年6月〜)から始まるフレームがあり、この3種でした。
似たような話でmongooseというアメリカのBMXブランドがあるのですが、1984年頃から台湾生産に切り替わっていまして製造番号の謎もあるようです。
こちらの区別は現在調査中で、三木製作所ならぬアメリカのムーアパーク製とメリダがあるようで、どちらもMから始まるのでマニアの中では話がもっと混ざりあっています。
https://i.imgur.com/NmNgGAQ.jpg
https://i.imgur.com/F6T9BcT.jpg
それと工場頭文字-年数一桁-月は大阪のフレーム工場に共通していると思われる節があるのですが
通し番号の方は頭の数字は違う場合が存在します。例えば1001から始まってる場合は1番目の車体だったりもするのです。
KAZUHIRO N says:
7月 6, 2022
少々誤解があるかもですが、こちから聞きたい事はなく
私の知っている範囲で情報をお伝え出来たらと思ったのですが
ご連絡頂けないようであれば、私の投稿全て消して頂けますでしょうか?
宜しくお願いします。
Satoshi Yoshizawa says:
7月 4, 2022
コメントありがとうございます。
元アラヤの「内藤常美」氏が、クワハラのET号は「アラヤ開発」と述べられている通り、他のクワハラBMXもアラヤが関わっている可能性は高そうですね。
正直申し上げまして、私はクワハラBMXについて、世の中で知られていること以上に知っていることはありませんが、何をお知りになりたいのでしょうか・・・
KAZUHIRO N says:
7月 3, 2022
初めまして、このページから連絡が取れるかは分かりませんが
私、KUWAHARA BMXの方面から工場や背景を追っています。
今日初めてこのブログを読ませて頂いております。
この記事の後に内容をアップデートさせた記事があるのかはまだ確認はしていませんが
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/wp-content/uploads/2014/09/sj_madeinjapan.jpg
こちらのMADE IN JAPANのステッカーは東洋フレーム製のKUWAHARAにも貼られています。
直接、詳しい話や、やりとりが出来ればとも思います。宜しければご連絡下さい。
宜しくお願いします。
Satoshi Yoshizawa says:
9月 30, 2021
ISHIKAWA様
コメントありがとうございます。
初代スタンプジャンパーの4穴ステムはBMX用パーツが元ネタですね。
> シンヤード自ら考案しハンドルやステムを作り上げたような文章が気になりました。
私は、パーツを日東に作らせ、それを自社製品として売ることは何ら気にならないのですが、ヨーロッパ製パーツに対しては、進んでそれはヨーロッパ製であることを明らかにするのに、(はるかに恩恵を受けている)日本製パーツに対しては、その逆である、という点が気になりますね。
Ishikawa says:
9月 28, 2021
mtb-lover様
コメント失礼致します。
シンヤードの言う「ベストなものが不十分だったら? 自らで作りあげました。
がっしりとした4点留めステム、クロモリ製ハンドルバー、は自社製です。」
というコメントについてなのですが当時のスペシャライズドのステムもハンド
ルも日東が作っていたはずです。
https://books.google.co.jp/books?id=aQ3lAgAAQBAJ&pg=PA246&lpg=PA246&dq=スペシャライズド%E3%80%80日東&source=bl&ots=6AojgfmuGu&sig=ACfU3U1dxzToIKshxhutHVSfhZghkNN4iQ&hl=ja&sa=X&ved=2ahUKEwicnsL436HzAhXCJaYKHRsvAR0Q6AF6BAgQEAM#v=onepage&q=スペシャライズド%E3%80%80日東&f=false
BiCYCLE CLUB 2014年4月号の246ページで触れられています。日東の吉川社長
自ら当時のMTBブームの時のOEMの受注先としてリッチーやゲイリーフィッシャー
と並んでスペシャライズドの名前をあげられていますので間違いないと思います。
日本製OEMにすぎないのに激しいライドでもハンドルが滑って回転しないように
リッチーが考案し、1982年より日東が量産を開始したブルムースバーと同じよう
にシンヤード自ら考案しハンドルやステムを作り上げたような文章が気になりました。
Satoshi Yoshizawa says:
3月 10, 2016
コメントいただきありがとうございます。
当ブログ、私が好き放題書き散らしているだけなので、是非、識者のフィードバックも戴き、内容を充実させたいとも思っていた次第でもあります。どんなことでもかまいませんので情報をいただけますと助かります。
画像なんかも送っていただけますとうれしい次第です。
powered_by_ducati@yahoo.co.jp
今後ともよろしくお願い致します。
koji says:
3月 9, 2016
始めてコメントいたします。
非常に興味深い記事、とても楽しみながら拝読いたしました。
当方、大阪市内にて自転車店を経営いたしております。
おかげさまで、新家工業さまのご担当とも接点があり、
個人的にもスタンプジャンパー、
親しい友人がマディフォックスを所有していることもあり、
何かしらお役に立つことができるかと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
Satoshi Yoshizawa says:
9月 29, 2015
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/?p=6817
遅ればせながら投稿いたしました。ご笑覧いただけますと幸いです。
田中 says:
7月 25, 2015
急がせてしまい、すみません。
あれから色々とお調べになられていたのですね。
流石に簡単には記事にされませんね。
私のMTBより初期の物をお持ちの方がおられるようで、楽しみにです。
お忙しい中、このような記事を投稿して頂き、感謝しております。
数ヵ月でも待ちますので、楽しみにしております。
Mase says:
7月 24, 2015
始めまして、メイス(Mase)と申します。Yoshizawa様、大変興味深い記事を公開して下さり有難うございました。私も1983年に当時出はじめたMTBを喜び勇んで買い、その車を今も保存しています。ブランドはARAYAですが、Yoshizawaさんの記事を読ませていただき、海外ブランドとも大変似通った仕様で作られていたことを知りました。ARAYAがOEMで海外に納入していたものと、ほぼ同じ自転車を国内販売したということなのかな?と思いました。
フレーム番号はA2J0020ですので、私が購入した83年10月の1年ほど前にARAYAが製造したもので、しかも国内向けとしては未だ20台めというごく初期の製品ということになるのでしょうか?未だ、Muddy Foxという名前もつけられる前なのか、フレームにはARAYAと書かれているだけです。
フレームはラグレス方式
クランク:Sugino Super Maxy L=180mm
変速機:Suntour Cycrone M2、前3速 後6速
シートピラークランプはクイックレリーズ式
など、Yoshizawa様の記事や写真とパーツも似通っていると思いました。
私の自転車は、初期のMTBの典型が国内発売されたごく初期の姿、という歴史的価値があるようですのでこれからも大切に保存しようと思います。
どうも有難うございました。
Satoshi Yoshizawa says:
7月 24, 2015
お待たせしてすいません。まだ完成していませんが、基本的なアウトラインはできていますので、細部をつめてから公開させていただきます。資料を集めているうちに、上のやり取りには無い「仮定」が閃きました。今しばらくお待ちください。
田中 says:
7月 22, 2015
お世話になります。
お忙しいところ、失礼します。
記事を楽しみにしておりますが、投稿はいつ頃になられますか。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 24, 2015
26XXがらみ(S&Gのモデルにも言及する予定です)で一本記事を書いてみたいと思います。忌憚のないご意見、ご感想いただけましたら幸いです。
田中 says:
6月 23, 2015
台湾製は、S&Gの途中からの物でしたか。
台湾製でも、しっかり監修していたでしょうし、1度見てみたいです。
送らせて頂きました、画像に不備がありましたら、写しなおしますので、ご検討下さい。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 22, 2015
台湾製造のマディフォックスはS&Gのものではないでしょうか。
S&Gは当初、日本(アラヤ)から車両を調達していましたが、ある時から(主にコストを理由に)台湾に調達先を切り替えます。ただ、マディフォックスの英国における商標はS&Gが所有していたため、アラヤと関係がなくなった後もそのまま使用され続けた、という経緯があるそうです。
田中 says:
6月 22, 2015
輸出向けと、判断してしまいました。
芦田自転車に、販売を助けてもらい、国内や海外にも広めていた、ということですね。
あと、S&Gの26Aが石渡パイプも面白いです。
台湾製造のマディフォックスも聞いた事があります。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 22, 2015
S&G については私も興味があり、調べています。(輸出といっても(私の知る限り)英国のみで、MTBの本場USにはなされていません。アラヤはUSにはリムを大量に輸出しているので、販路は持っているはずですが・・・)
http://www.pinkbike.com/photo/8688640/
たとえばこの車両、84年のラグ・モデルのMF26Aベースです。フレーム材は丹下クロモリではなく石渡マンガロイです。(日本仕様も同じマンガロイ)
http://www.pinkbike.com/photo/8688639/
ステムシャフトにもISHIWATAの刻印とご丁寧にもJISマークがあります。
http://www.pinkbike.com/photo/8706793/
S & G はMTBだけなく、BMXもアラヤに作らせていたようです。その名も Muddy Wolf !!
http://bmxmuseum.com/bikes/sg_cycles/74020
Satoshi Yoshizawa says:
6月 22, 2015
よく読んでください。輸出を担当していたとは一切書いていませんよ。むしろ「輸出」は確証がないので、( )付きです。売れるかどうか分からない新ジャンルのバイクの出荷数を稼ぐために芦屋の販路にも流したのではないかという判断です。
田中 says:
6月 22, 2015
ご返信ありがとうございます。
芦田自転車は、主に輸出用を担当していたのですね。
ですが、MB-MF26DXの海外使用は、ヘッドが長い設定です。
S&G Araya Muddy Fox がそうです。
芦田自転車/ロードアドベンチャー26XXは、輸出用というより日本用ではないでしょうか。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 22, 2015
後、芦田は商社とのことですが、(昭和30~40年代あたりの)芦田印の実用車の存在は確認できました。自社で自転車を生産していた時期はあった模様です。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 22, 2015
お返事遅れてすいません、画像、確かに受け取りました。貴重な資料ありがとうございました。
今のところの情報を総合的に判断して、
(1)アラヤ・マディフォックス26DXと芦田自転車ロードアドベンチャー26XXは同じバイク。ただし、バイクの企画、開発、製造はアラヤによる。
(2)商社である芦田自転車はアラヤよりOEM供給を受け、自社ブランド・ロードアドベンチャーで(輸出および)国内販売を展開。(アラヤは、まだ未知のジャンルのバイクの販売がどうなるか分からなかったため、一台でも多く捌けるようにOEM供給に踏み切ったのではないか)
(3)田中さんのバイクは芦田自転車ロードアドベンチャー26XX
田中さんのバイクは、当時の26DXと26XXの宣材画像で観察される両車の差異をほとんどすべて網羅しているため。(その点で田中さんのバイクのオリジナル度はきわめて高い)
・オリジナルペイントであるにもかかわらずアラヤのマーキングが全てない
・サムシフターのレバーの形状
・シートチューブ、フォークにタンゲのステッカーが貼ってある
・リアリフレクターの装備
以上が私の結論です。このネタで一本、記事を書かせていただきたいと思います。ご協力ありがとうございました。(なにか追加のネタがございましたらお教えいただけますと嬉しい次第です)
田中 says:
6月 20, 2015
こんにちは。
画像をお送りさせて頂きましたが、届いておりますか?
Satoshi Yoshizawa says:
6月 18, 2015
さらにお願いで恐縮なのですが、田中さんがどういう経緯で「芦田自転車/ロードアドベンチャー26XX」と「MB-MF26DX」が同型とお知りになったのですか?お聞かせいただけますと幸いです。
田中 says:
6月 18, 2015
ありがとうございます。
本日、夜に送らせて頂きます。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 18, 2015
あと、ぶしつけですがもしよろしければ田中さんのロードアドベンチャー?の画像をいただけませんでしょうか。田中さんとのやり取りでマディフォックスとロードアドベンチャーの2台で一本、記事を書いてみようと思い立ったからです。そこで分析を交えてご紹介させていただきたいのです。細部もとっていただければ嬉しい次第です。
もしよろしければ下記アドレスに送っていただけませんでしょうか。気長に待っています。
powered_by_ducati@yahoo.co.jp
Satoshi Yoshizawa says:
6月 18, 2015
>芦田自転車は、当時品質が優れている自転車製造メーカ-だったか?
1点、情報を見つけました。
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/wp-content/uploads/2015/06/ashida-bmx.jpg
このBMXは芦田ブランドです。解説には「ハンドメイド」、「国産最高パーツをアッセンブル」、「もっとも高価格の方に入る」と書かれています。(ちなみに75,800円です)つまり芦田自転車は高級車を扱う(製作する?)ブランドではあったのでしょう。ただし、このBMXもロードアドベンチャーと同じく、全く同じ仕様で他メーカーから売られていたものかもしれません。
>全く同じ自転車が2つのメーカ-で、販売されていた。ということです。
これは昔も今も特に珍しいことではありませんね。2社の関係に興味がわきますが。
>アラヤが作り、芦田も何らかの繋がりで、販売出来た。 とは考えられないでしょうか。
それはあるかもしれません。というのも、一件、参考になりそうな事例を見つけたからです。アシダ・シキシマというダブルネームの折りたたみ自転車です。
https://www.facebook.com/media/set/?set=a.167768739998102.32209.145561758885467&type=3
ヘッドとリアマッドガード2か所に芦田のマーク、シートチューブ1か所に敷島のマークが貼られています。車台番号は(アラヤ形式で)「S4F」。S=敷島、4=74年?84年?、F=6月と解せます。つまり、敷島で作って芦田が売ったと。
これは私の推測ですが、芦田は海外に販路を持っていて(画像の投稿元はフィリピン・ダバオ。東南アジア方面に強い?)、敷島にはそれがない。敷島は自社製品の輸出にあたり、芦田の海外販路に頼り、その際、芦田は敷島とのダブルネームで売ったのではないかと。(なお、敷島自転車は芦田と同じく大阪ローカルの老舗メーカー。現存しています)
しかしアラヤがわざわざ芦田に車両を卸す理由がみつかりません・・・そこで私は上の推測を発展させてこう考えてみました。アラヤはマディフォックスの輸出には積極的ではなかった。(実際、そうでした)その間隙を突いた芦田は、東南アジアへの輸出向けとして車両を卸してもらうことになった。しかし、アラヤブランドは使わせてもらえなかった。そこで自社ブランドのロードアドベンチャーを立ち上げた。本来、輸出向けモデルであったロードアドベンチャーであるが、少数が国内にも出回った・・・というシナリオです。この説を支える根拠はまったくありませんが。
田中 says:
6月 17, 2015
ヨシザワさん
画像や色々な情報を頂き、ありがとうございます。
芦田自転車の内容が、私のMTBと一致しております。
ですが、シートチューブ上側のA刻印は、ただのAではなく、ARAYAのトレードマークのA文字でした。
もしかすると、MB-MF26DXのステッカーを剥いだ物か、再塗装物かもしれません。
ですが、塗装は質の良い感じがしますし、タンゲのステッカーやBBの名称ステッカーはありますし、再塗装はないかんじです。
シフターもアルミ剥き出しで、リフラクターも、同型が付いております。
全く同じ自転車が2つのメーカ-で、販売されていた。ということです。
ですが、刻印は全てアラヤ。
主導権もアラヤ。
芦田が作り、アラヤが買い取り、販売。も推測できますが。
アラヤが作り、芦田も何らかの繋がりで、販売出来た。 とは考えられないでしょうか。
でも、何故、アラヤは、芦田と関係が無いというのか。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 17, 2015
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/wp-content/uploads/2015/06/diff.jpg
左がマディフォックス、右がロードアドベンチャーです。
ワイヤーの通りがハンドルの上と下で、またサムシフターのレバーが黒カバー付きと金属地のままで異なっています。ご参考まで。
田中 says:
6月 17, 2015
ヨシザワ さん
ご返答ありがとうございます。
ARAYAさんのスタッフとは、繋がりは無く、ただお客様相談にて確認したのです。
あと、サムシフターの形状とワイヤーの通し方を確認したいので、up画像を送って頂けないでしょうか。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 17, 2015
田中さん、「MB-MF26DX開発当初のスタッフ」とコネクションがお持ちであるならば、お手数ですが、スタンプジャンパーのアラヤOEMについて尋ねたいただけませんでしょうか。よろしくお願いいたします。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 17, 2015
私の興味はMB-MF26DXとロードアドベンチャー26XXとの関係ですね。ひいては「日本初のMTBはアラヤか芦田か」ということです。
芦田というメーカーについては全く何も知りません。私のテリトリーである東京近郊では現在、過去とも全く無名です。よくある大阪ローカルの量販車メーカーと思われます。当時の芦田の所在地、「大阪府八尾市西弓削3-133」をグーグルマップで見ると、現在は「東洋興業」となっています。この会社は設備系の金属製品製造業者で自転車とは無関係です。
ロードアドベンチャーについては、私の手持ちの80年代前半の雑誌に紹介記事がありましたのでご参考までにスペックを書き写しておきます。
http://www.italian.sakura.ne.jp/sons_of_biscuits/wp-content/uploads/2015/06/ashida26xx.jpg
芦田自転車 ロードアドベンチャー26XX
フレームサイズ:510mmx26″
フレーム:クロモリダブルバデット
フォーク:クロモリ
重量:14.7kg
タイヤサイズ:26″x2.125″
ギア:前3段(48-40-32T)x後6段(13-15-17-20-24-30T)
Fディレーラー:サンツアー・サイクロンM-II
Rディレーラー:サンツアー・サイクロンM-II GT
ショルダーパッドはオプション
価格:120,000円
この頃は現在の様なイヤーモデルの概念はなかったようで、仕様もロットによって異なる可能性はありますが、これらスペックはMF26DXと完全に一致します。フレームサイズが510mmのみという設定もMF26DXと一致、さらにロードアドベンチャーには24インチモデルもあることもマディフォックスと一致します。
芦田の宣材写真はバイクの向きから、フレームカラー、ついでに背景もアラヤのカタログ写真と一致するのは興味深いところです。クランク、エアバルブの角度から何から何まで一致。異なるのは、各所のロゴの有無、リアリフレクターの有無、サムシフターのレバー、リアブレーキワイヤーの通し方くらいでしょうか。(同じスタジオ、カメラマンで撮ったのでしょう。同じ時刻であるかもしれません)
田中 says:
6月 16, 2015
夜遅く失礼します。
先ほど、芦田自転車/ロードアドベンチャー26XXとMB-MF26DXとの違いを見つけました。
ステッカーがタンゲ以外無いことと、リアのリフラクターがありません。
私のMTBは、ステッカーがタンゲのみで、リアのリフラクターは芦田自転車/ロードアドベンチャー26XXと、同型が付いております。
芦田の可能性大です。
田中 says:
6月 16, 2015
あと、EOの意味は、ラグメーカ-印だそうです。
Tig溶接ですが、BB辺りにEOのメーカ-が使われていたそうです。
田中 says:
6月 16, 2015
ご返答頂き、ありがとうございます。
本日、アラヤのMB-MF26DX開発当初のスタッフの問合せしました。
フレームは材質から設計まで全て、アラヤです。
ここからは、メーカ-としての立場は関係が無い返答です。
東洋溶接なら、残念ですか?
私は、私のMB-MF26DXが本物か知りたかっただけですので、溶接は東洋でも、ARAYAでも良いのですが、失礼な質問をしたかもしれません。
東洋溶接でも、ARAYA溶接でも、設計はARAYAらしいです。
ですが、ヨシザワさんの推測は、芦田製ですね。
販売の仕方や、フレームにステッカーが無い状況等考えると、ありえます。
ARAYAさんは、芦田自転車とは関係が無いと言っておりましたが、不明ですよね。
結局、どちらでも、良い自転車なのですが、好きな自転車を解釈したいだけですよね。
ただ、日本で初めてのMTBがアラヤか芦田かが決まるとなると、重要ですよね。
芦田自転車は、当時品質が優れている自転車製造メーカ-だったかわかりますか?
Satoshi Yoshizawa says:
6月 16, 2015
>シートチューブの上側に、アラヤマークのA刻印があり、フレームのリアカゼットには、ARAYAの刻印が在りますが、芦田製でしょうか?
「A」のイニシャルがアラヤとも芦田とも取れ、判断に迷うところは私も同じです。ただ、MF26DXそのままの芦田ロードアドベンチャー26XXを見れば、その迷いは吹っ切れます。アラヤが発注した以上、芦田が造った製品にARAYAの刻印を入れさせても不自然とは思えません。(ロードアドベンチャー26XXの刻印がどうなっているか知りたいところですね)
芦田が単なる下請けであれば、ロードアドベンチャー26XXを世に出すことを許されなかったであろうことから、もしかしたら日本初のMTBの開発は芦田自転車主体であったのかもしれません。資本力のあるアラヤが、その企画一切を買い上げ、自社ブランド車として世に出す一方、(開発の功績を認め)同じものを芦田ブランドで(細々と)売ることも許した、というシナリオです。
一方、初期のマディフォックスに東洋フレームが関係したということは複数筋から耳にしております。フィレットブレイズが施してあるMF26-1 SPRあたりが東洋ではないかと推測しております。(あるいは芦田で造ったフレームを東洋に持ち込んで、フィレットブレイズだけ施したとか?)
田中 says:
6月 16, 2015
ご返答頂き、ありがとうございます。
車体番号が間違えていました。
A83Jではなく、A3Gでした。
結局、83年式の芦田製には、変わりないかもしれませんが。
シートチューブの上側に、アラヤマークのA刻印があり、フレームのリアカゼットには、ARAYAの刻印が在りますが、芦田製でしょうか?
今まで、4台のDXを見ましたが、全てこのような刻印があり、ボトム下の刻印は、Aから始まりました。
Satoshi Yoshizawa says:
6月 16, 2015
貴重な情報ありがとうございます。なお、私はインサイダー情報は一切持っておらず、外部の誰もが知ることのできる事実が判断のすべてであることをお断りしておきます。
マディフォックスとロードアドベンチャーの画像を比較すると一目瞭然で、初代マディフォックスは(東洋フレームではなく)芦田自転車製なのは明らかですね。(情けないことに、ご指摘いただくまで気づきませんでした)
>MB-MF26DXの車体番号はA83J
上記アラヤ文法によれば、
A=芦田自転車
83=1983年
J=11月
と解されます。(3ではなく83と2桁表示なんですね。ちなみに手元のとあるマディフォックスのフレームを確認したところ、H5A(1995年1月)とあり、一桁でした。H工場とはどこだ、という新たな(余計な)疑問がわきましたが)
肝心の「ダイヤモンド型の刻印があり、その中にEO」については、申し訳ありませんが分かりかねます。これに懲りず、今後も情報をご教授いただけましたら嬉しい次第です。
田中 says:
6月 13, 2015
初めまして、僕は、MB-MF26DXの所有者ですが、車体番号はA83Jから始まります。
そして、疑問は、車体番号の斜めに、ダイヤモンド型の刻印があり、その中にEOと刻印があります。
意味が解りません。
あと、芦田自転車/ロードアドベンチャー26XXも、MB-MF26DXと、同型でその自転車には、ステッカーが無く、ヘッドバッチはありません。
宜しくお願い致します。