先の投稿で、世界初の量産MTB、初代スタンプジャンパーは日本で作られたと書いたが、スタンプジャンパーの誕生の裏話は複雑で、一筋縄ではおさまらない。

————————————————————————————————————————

スタンプジャンパーはリッチーのコピーか?

————————————————————————————————————————

“Designed by Tim Neenan”

 スペシャライズド公式には、社内デザイナーの「ティム・ニーナン」(Tim Neenan)がスタンプジャンパーのデザイナーである、としている。彼はそれ以前にも、スペシャライズドがリリースしたロードフレーム「アレー」および「セコイヤ」にも関わっている。
 

Tim Neenan (then)

現在、ニーナンは「ライトハウスサイクルズ」(Lighthouse Cycles)を主宰している。
 

Tim Neenan (now)

 スタンプジャンパーの左側チェーンステーにはニーナンのサインをプリントしたステッカーが誇らしげに貼られている。
 
tim

 その一方、巷ではまことしやかにこう言われている。1980年、スペシャライズドのマイク・シンヤードはゲーリー・フィッシャーとチャールズ・ケリーのマウンテンバイクスに2基のフレームを発注した。シンヤードはそのリッチー製フレームを日本に送り、コピーを量産させた。それがスタンプジャンパーになったと。

 マイク・シンヤードがマウンテンバイクスにフレームを発注したのは事実。また初代スタンプジャンパーが日本で作られたのも明らかな事実。しかし、日本でリッチーのフレームが、まんまコピーされたか否かは、あくまで藪の中である・・・(追記:シンヤードが購入したのはベア・フレームではなく、完成車であることが判明した)
 

1979 Ritchey 1st model

1981 Specialized Stumpjumper

 なお、両車で細部の仕上げは異なり、リッチー車のフレームは、工芸的なフィレットブレイズ技法(接合部にたっぷりのロウを盛った後、整形して磨き上げる)で仕上げられているが、スタンプジャンパーは、TIG熔接された突き合わせ面そのままである。
 
 誤解のないように書いておくが、工業的には、TIG熔接は熔接の中でも最高品質のひとつと評価されており、強度だけみれば、ロウ付けよりもTIG熔接の方がはるかに優れている。この頃すでに、フィレットブレイズもTIG熔接したパイプ接合面の上に美的目的に施されることが多かった。(当時のリッチーは純粋にロウ盛りだけでパイプを接合していたが)

スタンプジャンパーに跨るニーナン

 

————————————————————————————————————————

スタンプジャンパーのフロント・フォーク長問題

————————————————————————————————————————


 コピー肯定派が支持する説に、コピーの過程で・・・本質を理解していないデッド・コピーだからこそ・・・起こりえない手違いが起きた、というものがある。

 マウンテンバイクスにフレームを供給していたトム・リッチーは、多産のビルダーではあったが、手間のかかるフロント・フォークの製作は好きではないと公言しており、フロント・フォークの納期は遅れがちだった。
 

 それゆえ、フィッシャーとケリーは、新たにフロント・フォークを作ってくれるビルダーを探すことにした。南カリフォルニアにおけるフレームビルダーの先駆、「サターン・サイクル」主催の「ジョン・パジェット」(John Padgett)が引き受けてくれることになった。(パジェットはJ.F.スコットのためのカスタムバイクを製作しており、スコットからの紹介だったと思われる)
 
 フィッシャーは、パジェットにフォーク材として(リッチーが愛用していたコロンバスとは異なる)レイノルズ製フォーク・ブレードを供給したが、それは700cを使うタンデム車用であった。フィッシャーがフォーク長の指定をしなかったため、パジェットはそれをカットすることなく、そのまま使用した。その結果、フォーク長は本来よりも1.5インチ(3.8cm)ほど長いものとなってしまった。

 フォークは1ダースほど作られてしまったため、リッチーはそのロングフォークを組んでもトップチューブが水平となるよう帳尻を合わせたフレームを新たに作ることになった。その修正によって、ボトムブラケット高は本来の高さよりも3/4インチ(1.9cm)ほど高いものとなり、キャスター角も66度から70度まで立てられることになった。
 

 
Long fork [LH]  /  Normal fork [RH]

 マイク・シンヤードが、マウンテンバイクスから2基のフレームを購入した際、受け取ったのは、このロングフォーク・バージョンであった。しかし、日本でコピーされたフレームには、どういう手違いか、26インチ用の短いフロント・フォークが組み合わされてしまったという。

 スタンプジャンパーが世に出たころ、そのハンドリングを酷評する向きがあった。それを、価格破壊で市場を荒らすニューカマーへのやっかみに過ぎないと受け取るか、あるいは、フォーク長の手違いが酷評されたハンドリングの隠された原因であったとみるか・・・

 この件と関係あるのか・・・初期型スタンプジャンパーのフォークはノーマル長だが、2007年に限定再販されたスタンプジャンパーにはロングフォークが付けられている。
 

トム・リッチー製バイプレイン


ジョン・パジェット製バイプレイン(ノーマル / ロング)


スタンプジャンパーのキャストラグ (1981年モデル / 2007年モデル)

 
 現在、スタンプジャンパーのハンドリングを酷評したレビューを探している。(マウンテンバイクスのチャールズ・ケリーが「リッチー車が泥の中を走っている程度」と書いたものがあるという・・・)

 スタンピーのデビュー間もない頃のFTF(Fat Tire Flyer)誌に、チャールズ・ケリーによるレビューが掲載されているが、(残念ながら)当たり障りのない紹介に過ぎなかった。
 

 

P4

P5

P15


 
————————————————————————————————————————

ティム・ニーナン作シャパラル

————————————————————————————————————————

「マウンテンバイクアクション」2018年9月号に衝撃の記事が掲載された。ティム・ニーナンが初代スタンプジャンパーのプロトタイプは、自分がスペシャライズドに勤める前に作った「シャパラル」であると述べているのだ!これをどう理解すべきか!?
 



(以下、記事の抄訳)

スペシャライズド・スタンプジャンパーの歴史

 スペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツ創業者マイク・シンヤードが、世界初の量産マウンテンバイク、スタンプジャンパーを作り、市場に送り出した1981年当時、マウンテンバイキングはまだヨチヨチと歩きだしたばかりだった。その頃、わずか数名のカスタムビルダーたちがマウンテンバイクのフレームを売っていたに過ぎなかった。それにもかかわらず、そのスポーツは人気を博しており、シンヤードはそれを見た時、自分は何をすべきかを分かっていたのだった。

小史

 1974年、シンヤードはスペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツを始めた。その年より前、シンヤードは自分のフォルクスワーゲンのマイクロバスを1,500ドルで売り払い、ヨーロッパを自転車で巡る資金に充てたのだった。

 シンヤードがイタリアを回っている際、チネリの創業者チーノ・チネリと出会った。シンヤードは、1,000ドル以上もの自転車パーツをチネリから購入し、アメリカで売るために持って帰った。すでにVWバスは売り払ってしまっていたので、シンヤードは、持って帰った自転車パーツをリアカーに満載し、それを自転車で引っ張りながら、店から店へと売ってまわったのである。これがスペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツの始まりだった。

 2年後の1976年、スペシャライズドは自身のブランドを冠したロードバイクタイヤを世に出した。その後、会社はロードバイク自体を作り始めた。フレームビルダーであるライトハウスサイクルのティム・ニーナンがシンヤードのためにフレームをデザインすると、シンヤードはその生産を日本の会社に手配した。シンヤードとニーナンは、そのフレームのためのコンポーネントをあつらえた。初のスペシャライズドのロードバイクは、その後すぐに市場に出回ったのだった。

 ニーナンはその頃、未舗装路を走行するために英国で作られている「ラフ・スタッフ」バイクについての自転車雑誌記事を読むと、自身のダート走行用のバイクの試作に取り掛かっていた。

 『初めて「ラフ・スタッフ」について知ったのは、バイクワールドマガジンだったと思う』

 ニーナンはマウンテンバイクアクション誌に語った。

 『そのバイクは基本的にツーリングバイクで、今日のグラベルバイクによく似たものだ。私は自分で作ったツーリング用フレームに、たっぷりのクリアランスとカンチレバー・ブレーキを与えて、たくさんのダートを走ってきた。26インチのノビ―タイヤが手に入るようになった時、私はそのタイヤに合う(シャパラルと呼ばれる)フレームを作ったんだ。』

 ニーナンは26インチタイヤについて語った。

 『26インチタイヤがもたらすものが、私は好きなんだ』

 ニーナンはさらに続けた。

 『私は最初のシャパラルをサンタバーバラに住んでいた時に作った。スペシャライズド最初の従業員として、フルタイムのデザインとセールス職に就くためにサン・ノゼに移り住む前のことだ。1979年の頃だったかな。シャパラルは、言うなればスタンプジャンパーのプロトタイプだったんだよ』

 『そして、マイクはリッチーを購入すると、週末に私と一緒に走るようになった。ある週末のダート走行後の月曜日の朝、私はシャパラルをベースにした量産マウンテンバイクを作ることを提案したんだ。私とマイクのバックには、その時、スペシャライズドが付いていたのだから。私はそのバイクの計画を書き上げると、日本に行って、マウンテンバイク生産が上手くスタートするように、1年もの時間をかけて手はずを整えた』

最初の生産分

 シンヤードは日本にスタンプジャンパーのフレームの初生産分を発注すると、バイクを完成させるために必要なコンポーネントを購入した。BMX用を改良したステムには、マグラ製のオートバイ用を基にしたスチール製ハンドルバーが取り付けられた。マファック製カンチレバーが、ツーリング自転車界から借りてこられ、ストッピングパワーを供給した。ブレーキレバーは、トマゼリのオートバイ用であった。サンツアーARX 15速ドライブトレインは、ロードバイク界から借りてこられ、ライダーたちに山で彼らが必要とするギアリングを提供した。最初のスタンプジャンパー完成車は、車重29ポンド(13.15kg)で、一台750ドル(訳注:現在の価値で2020ドル)で売られた。フレームは395ドルであった。

 最初の生産分である250台のスタンプジャンパーが売り切れると、シンヤードはさらに250台を発注した。他社も何が起きているかを知ると、その市場への参入を決めたが、スペシャライズドは有利なスタート切っていた。競合他社は、マウンテンバイクの需要が爆発した時に、ようやく後追いを始める状態にあった。

 2010年に準備された調査報告によると、1982年に5,000台だったマウンテンバイクのセールスは、1983年には50,000台に上昇していた。1986年までに、マウンテンバイクのセールスは、米国内の自転車専門店で売られた自転車全体の60パーセントとなるに至った、と報告されている。マウンテンバイクの販売台数は、数百万台に舞い上がった。スタンプジャンパーは革命を起こす手助けをしたのだった。

先駆者

 最初のスタンプジャンパーは、トム・リッチー初期のマウンテンバイクス・フレームに倣って製品化されたのではないかと考える人がいるということに対し、スペシャライズドのフレームデザイナー、ティム・ニーナンは、こう述べた。自分は実際にこのバイク・・・ライトハウスサイクルズ・シャパラル、スペシャライズド 26X1.25インチのファットタイヤを履く、1979年頃に作った・・・に倣って最初のスタンプジャンパーを製品化したんだ。
(記事の抄訳ここまで)

Lighthouse Cycles Chaparral

 
————————————————————————————————————————

シクロウネ製プロトタイプが存在した

————————————————————————————————————————


 「CAMBIO工房」氏によってメガトン級爆弾が掘り起こされた。まさか40年後の令和の世に、それもMTB不毛の日本からなされるとは、誰が想像しえただろうか。

 上で述べたとおり、USの関係者においては、「初代スタンプジャンパーはリッチーのバイクのコピー」と信じられているが、実のところ、その根拠は状況証拠のみというハッキリしない状態が長く続いていた。(マイク・シンヤードは、ゲーリー・フィッシャーからリッチー製MTBを2台購入した。その後まもなくスペシャからよく似た量産バイクが世に出てきた。これはもう日本でコピーを作らせたに違いない・・・)

 マイク・シンヤードは未来永劫、この件に関して口を割らないだろう。当時の日本の関係者は真実を知っているはずだが、日本の業界人は口が重く、USの関係者にとって言葉の壁も厚い。かような膠着状態の中、関係者が待ち望んでいた核心情報・・・コピーの証拠が挙がったのだ!

 スクープの経緯は全くもって偶然で(そこがまた尊いのだが)・・・CAMBIO工房氏が知人から古いMTBを預かった。それは、日本MTB黎明期にシクロウネが世に出した「カシワ号」であった。氏は、交流のある元シクロウネのフレームビルダー(ここでは「T氏」とする)を訪ね、この珍しいMTBへの意見を求めた。そこで瓢箪から駒が出たのである。

 まずは、CAMBIO工房氏による一連の投稿「カシワ・トムキャットについて」をご熟読いただきたい。さらに核心事実のみを抽出した「三連勝製試作スタンプジャンパーMTBのおさらいを。」を読めば、私と同じくらいにコトの重大性を受け止めたことになるはずだ。

 今回、CAMBIO工房氏から、氏の発掘した貴重な情報を当ブログで使用することを快諾いただいた。それに基づき考察を加えていきたい。

 (以下の青字部分は、CAMBIO工房氏による情報である。なるべく原文のままの引用となるよう心掛けた。なお、CAMBIO工房氏のいう「三連勝」と、私の言う「シクロウネ」とは、等意と理解していただきたい)
 

シクロウネがスタンプジャンパー試作にかかわった経緯

 スタンプジャンパーに関わる以前から、三連勝は、スペシャライズドのハイエンド・ロードバイクをOEM製作していた繋がりがあった。それは「アレー」と「セコイア」で、知る人には知られた事実である。
 
 ゲーリー・フィッシャーのマウンテンバイクスからリッチー製MTBを2台購入したマイク・シンヤードは、1980年秋に行われたアメリカのバイシクルショーで、三連勝の今野義氏にそのうちの1台を託し、市販を前提としたMTBの試作を依頼した

 今野義氏はリッチーMTBを日本に持ち帰り、こんな自転車を試作すると三連勝のスタッフに披露した。

 三連勝のスタッフはMTBに初めて触れて、乗ってみて、ずいぶんと重い乗り味の自転車だなと思ったという。
 

スタンプジャンパーを試作する

 三連勝によるスタンプジャンパー試作は、当時三連勝で試作車の製作を行ったビルダー(T氏)から直接聞いた話である。

 試作は1980年暮れから1981年初頭にかけて行なわれた。

 スケルトンはサンプルMTB(リッチー)をコピーした。(T氏から、リッチーMTBのサイズを測りながら製作した事を生々しく伺った)

 パイプは国産で極力丈夫なパイプを選んだ。シクロウネと石渡との関係の深さは良く知られており、試作車には石渡のパイプが使われたことであろう。(一方、スタンピー量産車では丹下のパイプが使われている)

 ダウンチューブはタンデム用のオーバルパイプを使用。

 フォーククラウンは丈夫な一輪車のフォーククラウンを使った。

 チェーンステーは長いチェーンステーがなかったのでモノステー構造にした。

 フレーム、フォーク以外の構成パーツは、リッチーMTBから試作車に移設された。この情報から、マイク・シンヤードは(USで言われているような)ベア・フレームではなく、完成車を購入したと判断できる。

 証言から、コピーは主にサイズだけで、細部の構造はかなり三連勝側でアレンジされたことが分かる。リッチー車のBBは汎用シールドベアリングを圧入するようにできているが、そこはコピーされず、試作車には専用自転車部品を使うように変更されている。
 

試作車の不採用

 完成した車体はマイク・シンヤード氏が日本に来て確認したと言う事だが、今野義氏とどんなやり取りがあったのかは不明
 

ニーナンも来日し、今野義氏とのショットを残している

 
 結局、三連勝で造られた試作車は採用されなかった。

 当時の三連勝ではMTBフレームをOEM製作を行う余裕がなかったのも要因の一つと思われる。

 市販スタンピーは東洋フレームがOEMを担当したと言うので、東洋フレームでも同時期に試作MTBを作ったのではと考える。(スタンプジャンパーと東洋フレームとのかかわりについては、以下で考察を行いたい)

 試作車は雑誌での試乗記事などに使われた

 しばらくして三連勝の塗装に塗り替えられた

 試作車は現在、行方不明である。
 

スタンプジャンパー試作車の露出

 件の試作車は、サイクルスポーツ82年8月号とニューサイクリング82年6月号に載せられている。

 サイスポ82年8月号の記事は私も見ている。それどころか、当サイトで話題にすらしている。が、そこに紹介されている「スペシャライズド・スタンプジャンパー」なるMTBが、我々がよく知っている「スタンプジャンパー」とは似て非なるものであったとは、つゆとも疑うことはなかった。

01

 よくよくみれば、明らかなデティールの違いが散見される。今となっては、なぜスルーしてしまったのか分からない。あえて言い訳をすれば、すでにスタンプジャンパーが世に出た後の露出であったため、完全に油断していた、としか言い様がない。

 雑誌には、「モノステー構造のチェーンステー」がよく分かる写真が挙げられている。

 当然、市販スタンピーのオーソドックスなチェーンステー構造(下)とは全く異なる。

 自分のふがいなさに居ても立っても居られなくなった私は、「ニューサイクリング82年6月号」を入手し、試作車の詳細を眺めることにした。

トップチューブには「 KASHIWA」、ダウンチューブには「SPECIALIZED」のロゴステッカーが貼られている。

 ブルムース型のハンドルは1982年からなので、普通のロードステムとアップしたフラットハンドル。

 シート=トップチューブ間の肩当はアマンダのパスハンターを参考にした。

 チェーンリングはTA 45×36×26で、フリーは14~30Tの5S、クランク長は180mmだった。驚くべきことに、すでにこの段階で左側チェーンステーには「Designed by Tim Neenan」のステッカーが貼ってある。(同じステッカーはセコイアにも貼られている。それを流用したのだろう)

 ブレーキレバーは西ドイツのマグラ製で、シフトレバーはアマンダの「カニレバー」を使っている。

 ブレーキはサイドに大きく張り出すMAFAC タンデムを使う。

 サドルにスタンプジャンパーのロゴが入っている!!(後から量産純正品に付け替えたのだろうか?)

自社製MTBへ

 試作車は自社のMTB「カシワ号」のプロトタイプとなった。非常に興味深いトピックであるので、カシワ号に関しては別稿を用意したい。

02


 

今野義はかく語りき

 スタンプジャンパーの試作車を作ったことで日本最初期にMTB製作に関わった今野義氏は、その翌年のニューサイクリング83年9月号でMTBについての私見を述べている。

 「あのカッコウが、一つのファッションだと思う訳ネ。つまりどういう作り方をしても、あのカタチというのはくずせないというのが有る訳ネ」

 この時点で早くも、MTBのファッション性が一般ユーザーへの訴求力だと看破しているのは注目に値する。


 

————————————————————————————————————————

スタンプジャンパーを量産したのは誰か?

————————————————————————————————————————


 US本国のスタンプジャンパーのWIKIには、スタンプジャンパーは日本製とだけあり、日本のWIKIには「新家工業(大阪府大阪市)」製とある。しかし、スタンプジャンパーのOEM先に「東洋フレーム(大阪府橿原市)」を挙げる人も少なくない。

 以下、「新家工業」と「東洋フレーム」両社について、思うところを書いてみたい。

新家工業

 ツバメ自転車のブランドをもつ新家工業は、自転車屋としてよりもリム屋として有名である。MTB誕生以前からUSではBMX用リムの供給大手として知られており、初期のMTBにはアラヤ製BMX用26インチ・リムがしばしば流用されている。そのころすでに日本から大量の自転車パーツを輸入していたスペシャライズド・バイシクル・インポーツとアラヤの間になんらかのコネがあってもおかしくない。また、1982年、アラヤが突如、日本初の量産MTB、マディフォックスを世に出すが、スタンプジャンパーのOEM生産の経験が活かされたのだろう、と推測できる。
 

 初期のMTBのリムに、アラヤのBMX用7Xがよく使われていた。
初代スタンプジャンパーも7Xを採用した。

東洋フレーム

 一方、東洋フレームもUSでの認知度は低くなく、たとえば、ゲイリー・フィッシャーは、彼がロードレース選手だったころに使った東洋フレームをして、「彼らが作るバイクは完璧で美しい」とベタボメである。(マウンテンバイクスをフィッシャーと共同経営するチャールズ・ケリーのスタンプジャンパーに対する評価は、「リッチー車が泥の中を走っているくらいのハンドリング」と辛らつなものだった。もちろん、手強いライバルへの牽制が多分に含まれているのだろうが)

 ちなみにリッチーは、1983年にフィッシャーのマウンテンバイクスと袂を分かった直後から、東洋フレームでのOEM生産を開始し、自身の名をつけたMTBの量産に励むことになる。その関係は長く続く。仮に、東洋フレームがスタンプジャンパーのOEMを行っていたのなら、(スタンプジャンパーがリッチーのコピー疑惑は濃厚である以上、)利益相反行為と言わないまでも、ちょっと微妙な話になるのではないだろうか。

 いくつか証拠を提示しながら検証してみよう。

MADE IN JAPAN のステッカー

 下の画像は初代スタンプジャンパーに貼られた MADE IN JAPAN のステッカーである。
 

Specialized Stumpjumper

 また下の画像は、アラヤが英国に輸出していたマディフォックスのフレームに貼られていた MADE IN JAPAN のステッカーで、両者はあきらかに同一である。
 

ARAYA Muddy Fox (UK Export Model)

 上で書いたリッチー車の東洋フレームによるOEM生産は、1983年から始まり、TIG熔接とラグ・ブレイズのフレーム2種が製作されている。ラグ車はすべてカナダのリッチー・ディーラー、ロッキーマウンテン社でリッチー・ロッキーマウンテンとして売られた一方、TIG車はすべてUS国内市場向けとなった。以下の画像は1984年式リッチー・ロッキーマウンテンに貼られた MADE IN JAPAN のステッカーである。上記のものとは異なっている。
 

1984 Ritchey Rocky Mountain

 
 参考までに「センチュリオン」と「ダイアモンドバック」のフレームに貼られた MADE IN JAPAN ステッカーもあげておこう。スタンプジャンパーに貼られたステッカーと同じものである。(車台番号から同じ工場(N)における、84年および85年の製造と分かる)これらのフレームを作っていたのはアラヤだろうか?追記:アラヤであることは判明した)
 

Centurion / 1985 Diamondback Apex

ラグ形状による考察

 1982年半ば=83年モデルでスタンプジャンパーのフレームに大きな変更があった。TIGの突き合わせ熔接が廃され、ラグを介するロウ付け(ラグ・ブレイズ技法)となったのだ。一見、技術的な後退に思えるが、ニーナンは、本来ラグ・ブレイズで行きたかったが、(何らかの理由で)できなかった。その後、ラグブレイズで製作できる環境が整ったため、そうしたと述べている。
 

82 model (TIG welded) / 83 model (Lugged)

 TIGからラグへの変更は、アラヤのマディフォックスにおいても符合する。マディフォックスの82・83年モデルはすべてTIG熔接だが、84年モデルよりラグブレイズのモデルが登場している。

 そこで、83年式スタンプジャンパー、84年式マディフォックス、84年式リッチー・ロッキーマウンテン3車のラグとを比較をすれば、なんらかのヒントが得られるのではないかと思い、そうしてみる。
 


1983 Stump Jumper


1984 Ritchey Rocky Mountain / 1984 Araya Muddy Fox

 見た目だけで判断すれば、スタンプジャンパーとマディフォックスに近似性を、リッチー・ロッキーマウンテンは他2者とは異なる傾向を感じ取れるのではないだろうか。

 と書いてみたが、実のところ、スタンプジャンパー、マディフォックス、リッチーのすべてで丹下製チューブ(&ラグセット)が使われている。マディフォックスはフレームに貼られたデカールで丹下製チューブの使用は明らか。スタンプジャンパーは、デカールで自社チューブセット「スペシャルシリーズ・ツーリング」の使用を主張しているが、その供給元は丹下であった。リッチーは当初、コロンバス製チューブを使っていたが、まもなく自身の名を持つチューブセットを持つことになる。その製造は丹下であった。

フレーム・シリアルナンバーからの考察

 スタンプジャンパーの車台番号(Serial Number, S/N)を集めてみた。

T刻印

T2C00***
 このフォーマットの意味は以下の通り

  T = 製造業者:TOYO
  2 = 製造年:1982
  C = 製造月:A=January, B=February, C=March・・・
  以下5桁は製造台数の連番

 81年および82年モデルがT刻印の車台番号を持つ。製造業者が東洋フレームと判明したとはいえ、この車台番号のフォーマットはアラヤが採用している形式であり、アラヤが無関係と思えない・・・実のところ、アラヤのマディフォックスも、東洋フレームがフレームの製造を担当していたとの話も耳にしている。つまり、東洋フレームはアラヤの下請け・・というより高品質なフレーム製造を請け負う協力工場だった、と捉えるのが自然であろう。

 スペシャライズドからスタンプジャンパーの生産をアラヤが受注し、アラヤはフレーム製造を東洋フレームに振った。東洋から納品されたフレームを完成車へアッセンブルするのはアラヤ、という流れはいかがだろうか?

M刻印

 上と同じく「アラヤ・フォーマット」。画像の車台番号から、なんと62,000台以上も生産していることがわかる。

  M = ?
  2 = 1982年
  L = 12月

 ・82年半ば(83年モデル)でT刻印からM刻印に切り替わる。
 ・T刻印はすべてTIGフレーム、M刻印はすべてラグフレームであることは分かっている。
 ・M工場とは?三木製作所(堺市)?ま、まさか、メリダ(台湾)?
 

  M = ?
  3 = 1983年
  B = 2月

 翌83年もM工場で作られている。上のフレームには”Japan”のステッカーが貼られていることが確認できた。Mはメリダではない。
 

 ただ、以前の”MADE IN JAPAN” ステッカーとはデザインが異なる。アラヤは関わっていない?しかし、車台番号のフォーマットはアラヤ形式だ!(追記:この”Japan”ステッカーは一時期のアラヤ、それも三木製作所製モデルが使用していたことが判明した。M工場はやはり、三木製作所で良いようだ)

 このアラヤ形式の表記フォーマットは83年生産車まで使用されている。(84年刻印のモデルもあるが、下で示す通り、残務処理的にごくわずかが作られたに過ぎない)さらに、リムには、83年モデルまでアラヤ製が、84年モデルから87年モデルまでは、スペシャライズドがリリースするサターン・リム(ウカイ製)が採用されている。

サターン・リムは商標問題から Saturn の語尾に e が付けられ
Saturne とされた。さらに Saturae に変更された。

 以上の事実から、『スタンプジャンパーにアラヤが関わっていたのは83年モデルまで』というのが私の結論である。

 ここでMOMBAT調べのS/Nデータを紐解いてみよう。

--------------------------
T1J0079		1981年10月 (1)
--------------------------
T2F00638	1982年 6月 (2)
M2G29792	1982年 7月 (3)
--------------------------
M2H31055	1982年 8月 (4)
M3H67936	1983年 8月 (5)
--------------------------
M3L11019	1983年12月 (6)
--------------------------
M4A00195	1984年 1月 (7)
M4F00238	1984年 6月 (8)
--------------------------

 (1)、最初期ロットの125台のうちの1台。
 (2)(3)、1982年半ばで「T刻印」(東洋製TIG車)は終わり「M刻印」(三木製ラグ車)に切り替わる。
 (4)(5)、同じ8月までの生産台数を比較すると、31,055台(1982年)から67,936台(1983年)と倍増している。
 (6)、1983年末で11万台を越えている。(当初の生産台数には4桁が割り振られ、それが5桁に増やされたが、それも溢れてしまっている)
 (7)(8)、1983年モデルいっぱいで生産工場は他に移され、1984年は残務処理的に、半年でわずか238台しか作られていない。

 プラザ合意(1985年9月)後の円高で、USブランドのOEMの多くは日本製から台湾製に舵を切り替えることになったが、これらすべてはプラザ合意前に起こっていることに注目されたい。
 

アラヤ・フォーマットに沿わない車台番号

●”84 ****”、”85 ****”という形式。これは1985年モデル「スタンプジャンパー・チーム」で採用されているのを確認した。最初の2桁は製造年で間違いない。(追記:このフォーマットは、1980年代半ば頃に「東洋フレーム」で使われていたものと判明した)
 

 
●”M5*****”の形式。アラヤのものと似ているが、製造月を表すアルファベットが省かれている。(M5=メリダ、85年だろうか?)
 
●”AS******”、”CS******”、”ES******” という形式も確認されたが、解読できていない。(1984年の24インチホイール・モデルがESで始まる車台番号を有している)
 

 

 

スペシャライズド・アレー&セコイア

 上にも書いたが、スペシャライズドのロードバイク、アレーとセコイアの生産はシクロウネで始まっている。スタンプジャンパーの試作車もシクロウネの仕事だった。そこで、アレーとセコイアのS/Nの変遷を眺めることで何かが見えてくるかもしれないと思い、そうしてみる。

 最初期のシクロウネ製アレー(赤)とセコイア(青)のS/Nは以下の通り。そっけない二桁の数字がポンチされているだけだ。(アレーには「MADE IN JAPAN」のステッカーが残っている!)

 S/Nのフォーマットから、(ツーリングバイクで、比較的生産台数の多かった)セコイアの製造は1982年にはアラヤに変わっていることが伺われる。これは1981年からのアラヤがスタンプジャンパーのOEMを引き受けた縁ゆえと思われる。また、1984年あたりで関係が切れるのもスタンプジャンパーと同じ。(ロードレーサーであり、生産台数の少ないアレーは引き続き、シクロウネの仕事だったようだ)

M2F = M工場 1982年6月

M3A = M工場 1983年1月
例の「MADE IN JAPAN」ステッカーが貼ってある!

M4F = M工場 1984年6月

 日本製であることを示す「JAPAN」のステッカーは張られているが、S/Nは、解読不明の7桁の数字列に変わってしまっている。たいてい生産台数に下5桁が使われることから、上2桁が生産年(00=2000年)だろうか?(そうであれば、東洋フレームのフォーマットと同じとなる)


 


 
 最初期のスタンプジャンパー同様、最初期のアレーおよびセコイヤにも、「本当は誰の作品なのか?」という詮索がつきまとっている。(というのも、アレーもセコイヤも、作家性の強いシクロウネの今野義氏がビルダーであるからだ)

 ティム・ニーナンは、あくまで設計は自分で、生産はシクロウネと主張している。

 「セコイヤ、アレー、エクスペディションのフレームは私が設計した。マイク・シンヤードと私は、生産準備のために4週間も日本に滞在した。そう、今野義はアレーとセコイヤを何台も作っている。それらは美しいフレームだった。しかし、初のロードテストのためにバイシクリング・マガジンに送ったセコイアは、私が作ったものだ。」

 1983年から1990年までスペシャライズドのR&Dディレクターの座にあったBBことブライアント・ベーンブリッジ(Bryant Bainbridge)はこう述べている。

 「最初のデザイナー、ティム・ニーナンはエクスペディションを設計した。セコイアにも責任者として関わっているはずだ。(ニーナンに面識は無いようだが、「設計した」とは言っていない)初期のアレーのほとんどは今野義が作ったということは良く知られているが、セコイヤはそうではない。1983年、私とジム(後述)が仕事に就いた時には、東洋フレーム(実際はアラヤのコントロールで三木製作所)に製造は移されていた。」

 「次のデザイナーは。ジム・メルツ(Jim Merz)で、80年代半ばのアレーでその名を上げた。1984年モデルのアレーSEはミヤタで製造された。しかしミヤタのように大きな会社は柔軟性に乏しく、まもなく小さい工房(東洋フレームか?)に仕事は移された。」

 「ラグ&スチールフレーム時代最後のデザイナーは、マーク・ディヌッチ(Mark Dinucci)だ。アレー Pro、アレー Comp の責任者で間違いない。プラザ合意後の円ドル為替は深刻で、1986年、アレーとシリウスを除くすべてのモデルの生産を台湾(ジャイアント)に移した。(メリダでは無かった!)いよいよ円に対するドルの価値が以前の半分にまで下落した時、アレーもシリウスも台湾生産となった。マーク・ディヌッチは、文字通り、台湾の工場に1か月間住み込んで、生産技術指導を行った。」
 

 

————————————————————————————————————————

東洋フレームはかく語りき

————————————————————————————————————————

 
 東洋フレームは自社HPに「実績」として過去の取引先を公開している。1973年にナショナル自転車協力工場としてスタートとあるのは興味深い。http://toyoframe.com/about-toyo/history/

 以下、関連部分のみ引用する。
 
toyo
 そこにはアラヤもスペシャライズドも記載はない。もちろん、契約上、公開していないだけかもしれない。それよりなにより、この公式年表に記載された年号などに疑問が生じざるをえない。

KUWAHARA

 1978年に「KUWAHARA~EVERYTHING BICYCLE」とある。「KUWAHARA」は言わずと知れた日本のクワハラで、「EVERYTHING BICYCLE」は、ハーウィ・コーエン(Howie Cohen)氏率いるエヴリシング・バイシクルズ(EVERYTHING BICYCLES)社のことであろう。クワハラのUS代理店となったエヴリシング・バイシクルズは、BMXのクワハラを世界的なブランドにした立役者として伝説的な存在だが、両社の関係は1979年からのこと(とされている)・・・映画「E.T.」の公開に至っては1982年であるし・・・(BMX界のことはMTB界のこと以上にわからない(笑))

RITCHEY

 1978年と1980年に「RITCHEY」が2つあるのは、どういうことだろうか?リッチー初のMTBは1979年のことゆえ、1978年時はロードバイクのフレームを請け負ったことになる。1978年当時、まだ個人商店の規模にあったリッチーが、フレームの海外OEM生産に乗り出す必要があったとは考えにくい。

ROCKY MOUNTAIN

 さらに1978年に「ROCKY MOUNTAIN」とあるが、当時まだロッキーマウンテンは設立されていない。1978年は、創設者ジェイコブ・ヘリボーンが前身となる自転車小売店ウエストポイント・バイシクルズ(West Point Bicycles)をバンクーバーで経営していた頃である。ようやく、ニシキのロードバイクにファットタイヤ、バーハンドルとサムシフターを装備した”MTBの原型”を製作するに至った頃でもある。その後、1980年、ウエストポイントはリッチーのカナダ代理店となり、満を持してMTBメーカー、ロッキーマウンテンを設立したのは1981年である。この頃、ジェイコブはリッチーと共に日本に行って、日本の自転車産業との関係を構築している。その結果生まれたのが、カナダ初のMTB、1982年ロッキーマウンテン・シェルパ(Sherpa)である。そのフレームは東洋フレーム製であった。
 

 
 マウンテンバイクカスタムファイル(スタジオタッククリエイティブ/1995(平成7)年より


—————————————————————————————————————

 
 La route 2020年4月24日付の記事、「ビルダー4名が語る、金属フレームのこれから」に東洋フレームの2代目、石垣鉄也氏が紹介されている。

 そこには「アメリカのMTBブーム時には「スペシャライズド」や「ゲイリー・フィッシャー」、「リッチー」などのフレーム制作を請け負い、有名ブランドを陰で支えた」とあった!!残念ながら、ブランド名以外の時期などの記述は無し。
 

 

————————————————————————————————————————

アラヤ関係者はかく語りき

————————————————————————————————————————

アラヤ・マディフォックス物語

 CAMBIO工房氏のブログで「アラヤ・マディフォックス物語」なる記事があることを知った。当時の関係者の発言は貴重。早速、私も有料会員登録をして購読することに決めた。(以下の青字部分は、アラヤ・マディフォックス物語からの引用である)

 記事は、アラヤを40年以上勤めあげた「内藤常美」氏へのインタビューをまとめたもの。内藤氏は「1981年入社」で、「1982年夏にサイクル事業部に異動」したときには「マディフォックス開発は最終段階」だったとのこと。

 アラヤによるスタンプジャンパーOEMの顛末を語るにはわずかに遅い世代の方であった。その仕事は、内藤氏の上司である「マウンテンバイクを作った男」、「印牧(かねまき)昭治」氏および「アラヤの輸出自転車の開発を長年携わって」きた「山口登」氏あたりによって成されたのだろう。

 それでも貴重な一次情報である。少しでも関係あるトピックを拾っていきたいと思う。

マウンテンバイクを作った契機

 「アラヤはなぜマウンテンバイクを作ったのか」については、自社のBMX用リム「7X」が、「間接的にではあるが」、「きっかけとなった」としている。「7Xの26インチ」が、「マウンテンバイク黎明期のトム・リッチー、ゲイリー・フィッシャー、チャーリー・カニンガムに見いだされ、彼らの作品に使われていたらしい」とあるが、「らしい」ではなく明らかな事実である。

 「リッチーやフィッシャーがヒッピーのような恰好で心斎橋にあるアラヤのリム営業部を訪ね、マウンテンバイクの話を持ってきていた、と当時を知る大先輩によく聞かされていた」とある。(フィッシャーはともかく、リッチーはヒッピーじゃないような気がするが・・・)訪問はアラヤのMTB開発以前というから、1982年の有名な日本行脚・・・リッチー、フィッシャー、ジェイコブ・ヘリボーン(ロッキーマウンテン)らがスタンプジャンパーの成功に触発されて来日したときよりも前となろう。1982年以前の日本行きについては、饒舌な当人たちも話題にしていないが、内藤氏の時系列の記憶違いの可能性も無きにしも非ず。しかしそうであれば、以下の発言は時系列的に矛盾したものになってしまう。追記:「MTBエンスー講座」(1999年ネコパブリッシング)中の「MTB発展の系譜」に、「’80 リッチー、フィッシャーら来日 リッチーらは当時世界でも最高水準として評価の高かった日本のメーカーにパーツの生産を依頼に全国行脚。」との記述がありました。

社内では種々意見があったが、リッチー、フィッシャーの訪問をきっかけとしてマウンテンバイクの開発が本格的に始動。また7Xからマウンテンバイク用としてさらに進化したリム開発も行われた」とのことだが、これは字面をそのまま受け取ると、「アラヤは独自に自社製MTB開発に踏み切った」ということになる。そのきっかけは、リッチー&フィッシャーであっても、決してスペシャライズドではない。本当か?

 一体、スタンプジャンパ-はどこに行ってしまったのか?スペシャライズドへのOEMは、アラヤ的に無かったことになっているのか?訴訟大国のモンスター、スペシャライズドへの忖度なのだろうか?所詮、日本の(元)企業人。すべてを包み隠さず話してもらうことは、やはり難しいのか・・・

スペシャライズド・スタンプジャンパー・チーム

 文中、スタンプジャンパーへの言及は以下のみである。

 (1984年某日、サンツアーUS社長・河合一郎氏に誘われ見物に行ったサンフランシスコ郊外オークランドで行われたレース会場にて)「参戦していた選手が使っていた、開発中の次年度(1985モデル)スペシャライズド・スタンプジャンパー・チームを見ることになる。詰まったリヤセンター、立てたシートアングル、少し幅狭なハンドル。それまでにはなかったシャープなマウンテンバイクを見た。なぜだかわからないけれど上下ブリッジにドロヨケ隠し止台座もついている。美しいラグと各所のフレームワーク。ランドナー好きも納得できる綺麗なマウンテンバイクに目を奪われた。著名な日本のビルダーによる製作だったのかもしれぬ。

 私の不確かな調査ではアラヤ製スタンプジャンパーは1983年までと踏んでおり、さすがに自社製品を自画自賛しているわけではないのだろう、と信じたい。しかし、唐突に「日本のビルダー」なんてフレーズを挟むことに違和感を感じる。何か知っていると言わんばかりだ。「著名な日本のビルダーによる製作だったのかもしれぬ」というのは、「著名な日本のビルダーによる製作である」と読み取るべきか。

 以下、まったくもって私の推測に過ぎないが・・・この時見たスタンプジャンパーは、従来通り東洋フレーム製だった!しかし、アラヤは(未知の2社を取り持った功績があるにもかかわらず)、間で中抜きしているだけとみなされ、取引からハブかれてしまっていた。(中長期的な関係を重んじる日本人は、こういう短絡的な頭越し行為は避ける傾向にあるが、目の前の利益を最大化したがるUSの連中は普通にやる)スペシャライズドと東洋フレームとの直接取引で生まれたスタンプジャンパー・チームへの愛憎半ばの恨み節とか?

追記:スタンプジャンパー・チームは東洋フレーム製であることが判明した。

アラヤのUSむけOEMブランド

 なんとアラヤ社員が1983年の「パールパスツアー」に参加していた!

マウンテンバイクの実際の使用状況を調査するために、米国マウンテンバイクツアーに参加することを印牧氏が提案した。
1983年に印牧氏が参加したクレステッドビュートのパールパスツアーには、まだまだフロンティア制作のワンオフ車が多い中、参加者250名のうち50台以上がすでにアラヤ製量産車であったとの出張報告書がある。

 「アラヤ製量産車」、分かりづらい表現だが、アラヤがOEMしている他ブランドのバイクのことを言っている。それでも、この時点で20%もの高い占有率になっているとは驚きだ。間違いなくスタンプジャンパーはカウントされているに違いない(笑)

 記事中、内藤氏が、アラヤのUSむけOEMブランドを挙げているので、まとめておこう。かなりの数に上る。

■ スペシャライズド
 文中、「日本の自転車商社を通じて輸出できた」とだけある。商社は「タイオガ」を擁する神戸の「マルイ(オリエンタル貿易)」だろうか?私は、何かの記事で「スペシャライズドのマイク・シンヤードはマルイにとてつもなく世話になっている(大恩がある)」と読んだことがある。

■ リッチー

■ ロッキーマウンテン

■ センチュリオン / ■ ダイアモンドバック
 US大手ディストリビューター WSI (Western States Import)が擁するブランド。

■ SR
 栄輪業のことだろうか?

■ ユニベガ

■ ジェイミス

■ プジョーUSA

■ ノルコ

■ USコルナゴ

■ BRC
 カナダのブランド

■ クワハラ
 ETレプリカモデル(BMX)はアラヤで開発した。(と内藤氏は述べられているが、当稿コメント上で異論が上げられている。興味のある方は2022年7月8日のコメントをご参照のほど)

■ FOCUS
 現在のドイツブランドとは関係のない、アラヤの直営ブランド。リム販売先との軋轢を考慮してアラヤ名義を使用しなかった。(命名は、当時流行った写真雑誌「フォーカス」にあやかった、と衝撃告白しているが、日本と同じく歴史ある「スワロー」ブランドで売ればよかったのに!)

 フルラインナップを有し、マウンテンバイクは「MB-400」がカタログに載っている。


  

————————————————————————————————————————

ヨーロピアンテイスト溢れるスタンプジャンパー

————————————————————————————————————————


 前の稿でも何度か引用させてもらっているドキュメンタリー映画「クランカーズ」(2007年)にマイク・シンヤードも出演している。当然、MTBを量産して世に広めたとの文脈で登場するのだが、後からやってきた部外者(シンヤードはクランカー乗りではなかった)が先駆者らが開拓したものをまんまとかっさらっていったという否定的なニュアンスは匂わされている。
 
sj001

 まず、スタンプジャンパーは日本でリッチー車をコピーして作った、とパイオニアたちにこき下ろされる。
 

sj002

 その直後、「各国からパーツを集めて作ったんだ」と恥ずかしげもなく強弁する滑稽なマイク・シンヤードの図、となっている。
 

sj003

sj004

 続く映像は見ての通り。シンヤードにとって「各国」とはヨーロッパ各国のことなのだろう。日本の「に」の字も出てこない。(製作側の意図的な編集ではないと信じたい)

 なお、ここでの笑いどころは、TAのクランクもオートバイ用を流用するレバーも、スペシャライズドが独自に世界から探してきたパーツなどでは決してなく、先達の定番品をそのまま倣ったに過ぎない、ということだ。

 TAのクランク&チェーンホイールについては、「(壊れやすく)もっと良いものがあるのに、なぜだかマリンのクランカー乗りたちはTAを好んだ」と評される程度のものである。きっと彼らが(シクロクロス時代から)使い慣れたパーツであったのだろう。

 ただし、レバーに関しては、工夫があったといえよう。マリンの連中はマグラ製を使ったが、シンヤードはトマゼリ製を選んだのだ(笑)。(どちらもオートバイパーツ由来であるが、トマゼリの方が低コストだったらしい)

 参考までに、1982年モデルのスタンプジャンパーは以下のパーツを使用している。

Headset Specialized sealed steel
Bottom Bracket Tange
Rear Derailleur Suntour ARX
Front Derailleur Suntour ARX
Hubs Suzue sealed bearing
Rims Araya 7X 26 x 1.75″
Spokes DT Stainless Steel 3 cross
Tires Stumpjumper
Brakes Mafac Tandem
Brake Levers Tommaselli Racer
Crank TA Cyclo Tourist 26/36/46
Pedals MKS Lyotard
Shifter Suntour Mighty
Handle Bar Specialized alloy rise
Grips Oakley3
Stem Specialized BMX style 4 bolt
Freewheel Suntour 5speed 14/28
Chain Sachs Sedis
Saddle Avocet Touring I
Seat Post Sakae Ringyo LaPrade


 この中でヨーロッパメーカーのパーツは、ブレーキ(マファック)、ブレーキレバー(トマゼリ)、クランク(TA)、スポーク(DTスイス)、チェーン(ザックス)程度。映画でそれを目いっぱい主張したわけだ。それ以外のすべて・・・フレームは今さら言うに及ばず、BBは丹下、ディレーラーはサンツアー、ハブはスズエ、リムはアラヤ、ペダルは三ケ島、シートポストは栄、と日本メーカーが占める。(スペシャライズドの自社ブランドパーツはまず日本製OEMであろう)

 まあ、マイク・シンヤードも自転車マニアによくいる、ヨーロッパかぶれの見栄っ張りの俗物、ということなのだろう。いや、もっと重症かもしれない。ヨーロッパからパーツを集めて作り上げた自らの処女作、というファンタジーを正当化するために、現実を捻じ曲げようとさえしている。日本製パーツでさんざん儲けさせてもらっても心は憧れのヨーロッパ・・・今は日本が台湾に置き換わっているだけなのだろう。

 それにしても、業界の最重要人物として確固たる地位に君臨するマイク・シンヤードは、この映画の中の自分の扱いを観てどう思ったのだろう?映画のプレミア会場にノコノコやってきてすらいるわけで、少なくとも公開まで観ていなさそうだなあ。

追記:

specialized
 バイシクリング誌83年5月号から抜粋した本当に笑える一節。『スペシャライズドは、日本の工場で製作したオフロードバイクを、昨年始めより最初に提供し始めた製造業者である(傍線上)』という各社のMTBを紹介した記事中の文章に対し、下の方に注釈(傍線下)が入っている。『スペシャライズドから早速の指摘が以下の通りあった。フレームと多くのコンポーネントは日本製であるが、他のコンポーネントはフランス、イタリア、スイスからのものである。ホイールの組み立てと最終組み立てはカリフォルニアで行われている。』

 おそらく、記事のゲラを読んだ(記事への車両&情報提供者であり、広告主でもある)シンヤードが編集部に訂正しろとクレームをいれたのだろう。(編集部は記事を訂正することなく注釈で対応した。それも「多くの」という形容詞をしっかり入れた上で)

 これで記事が出た1983年の頃から映画が製作された2007年までの25年間、シンヤードの考えは微塵も変わっていないことが確かめられた。(しかし、コイツ、いまだにせっせと日本の工房にフレームを発注しているんだよね。大好きなヨーロッパか自分の国のビルダーに依頼すれば、こんな卑屈な思いに囚われなくて済むのに!)

さらに追記:

 スタンプジャンパー初見参時の広告を上げるのを忘れていた。この時点で、しっかり書かれていたの分かる。(右下のオーバーオールとハイッソクスでキメた人、若き日のニーナン?)
 
stumpjumper_ad
 この部分・・・
 
only_the_strong_survive

 
(訳)強いものだけが生き残る
 ゆえに我々は妥協しませんでした。一から造り出すことから始めたのです。:先鋭的なジオメトリーと寝かされたフォークを持つクロモリフレームは専用品です。マファック製カンチレバーブレーキ、トマゼリ製オートバイ用レバー、ラチェット式サムシフター、TA製3速クランクセット、サンツアーARXコンポーネント、DTステンレススポークを組み込んだホイールスミス製”ディッシュレス”アルミリム、高精度シールドベアリング、オーバーサイズ・アクスル。あまりにエキゾチックなパーツ群は、フランス、イタリア、日本、スイス製です。

 ベストなものが不十分だったら?自らで作りあげました。インベスメントキャスト製法のフォーク・クラウン、がっしりとした4点留めステム、接触式シールのヘッドセット、クロモリ製ハンドルバー、アグレッシブな26インチ・ノビータイヤは自社製です。


 嘘は無いが、ミスリードに満ちた文章といったところ・・・ところで、スタンプジャンパーの最初期モデルだけ、リムはアラヤ製ではなく、ホイールスミス製だったのでしょうか?

Wheelsmith

 確かに、初代スタンピーの初期モデルには、リムに “Wheelsmith” のステッカーが貼ってある。一方、リムはアラヤの7Xに見える。・・・シンヤードは『ホイールの組み立てはカリフォルニアで行われている』と言っているから・・・ホイールスミスとはホイール・アッセンブラー?ステッカーはアラヤ刻印の上に貼っている?


 
————————————————————————————————————————

英国から痛恨の一撃

————————————————————————————————————————


 ロンドンにあるデザインミュージアムの学芸員、アレックス・ニューソン(Alex Newson)による「世界を変えた50台の自転車」(2013年)という本には、衝撃的な事柄が、しれっと事実として書かれている!!

 製作者が「Tom Ritchey & Specialized」とされているのだ!!

 本文、第2段落もなかなか効いている。

スタンプジャンパーは、トム・リッチー(1956年~)、マウンテンバイクのフレームを最初に作りだしたひとり、によって作られたカスタム自転車を基にしている。スペシャライズド・バイシクル・コンポーネンツは、USのメジャーブランドであるが、トムのデザインを取り込み、量産メーカーと市販コンポーネントを使って、よく似たマシンを作りだす方法を考案した。広範囲の調査の後、適切なコンポーネントが、イタリア、スイス、フランスなど世界中から集められると、組み立てのために日本に送られた」

 第2段落・前半はマイク・シンヤードが卒倒、憤怒しそうな書き様だが、後半はマイク・シンヤードの Made in Europe のイリュージョンそのままであるのが興味深い。(英国人と言えどもヨーロッパ人であり、マイクのイリュージョンは、そのままアレックス・ニューソンのイリュージョンでもあるのだろう。我々は、あのスタンプジャンパーをコンポーネント供給面で支えたのだ!と)