ホンダコクレクションホールで2009年2月10日から6月14日までに行われた「世界のかわいい乗り物たち」という特別展示のご紹介。
ハインケル マイクロカー 1958(昭33)年
ハインケルは第2次大戦中のドイツの航空機メーカー。敗戦国ゆえ、戦後、航空機生産を禁じられたドイツ、イタリア、日本の航空機メーカーが、「食うために」手を出したのが、スクーターやこの手のマイクロカー(その形状からバブルカーと呼ばれた)の生産でした。
スクーター用、174cc、9.2馬力の空冷OHV単気筒エンジンに4速ミッションを組み合わせ、242kgの車体を90km/hまで引っ張ります。
撮影者、イチオシのクルマ。
メッサーシュミット KR200 1955(昭30)年
日本でも根強いファンを持つ、バブルカーの代表的な存在。メッサーシュミットもドイツの航空機メーカーです。
(メッサーと並ぶバルブカーの双璧は、ここでの紹介はありませんが、同じドイツのBMWのイセッタでしょうか。BMWも航空機エンジンメーカーでした。ただし、イセッタのオリジナルは、イタリアのイソ社にあり、BMWは、イソより製造ライセンスを購入し、エンジンを自社製オートバイ用に乗せ換えたものでした。ちなみにイソは暖房機、冷蔵庫などの大型電化製品から、スクーター、バブルカー生産を経て、60年代にスーパーカー・ビジネスに乗り出すも、70年代半ば、オイルショックのあおりを受け倒産してしまいます。)
おなじくスクーター用、空冷2サイクル単気筒191cc、9.7馬力で240kgの車体を100km/hまで引っ張ります。
リバースはエンジンを逆回転して行います。これは2ストエンジンならではの制御です。すなわち、リバースも前進と同じく4速あるわけです。(4ストのハインケルはリバースギアを持っていました)
べスパ 400 1958(昭33)年
スクーターのベスパで有名なピアジオ社もイタリアの航空機メーカーでした。実のところ、当方、ピアジオが4輪に手を出していた(それもベスパの名前をつけて!)とは知りませんでした。
ただし、生産はピアジオではなく、フランスでベスパをライセンス生産していたACMA社だそうです。
空冷2サイクル並列2気筒394cc、14馬力。リアエンジン・リアドライブ。360kg。2人乗り。
フィアット 500 1936(昭11)年
有名な500(チンクエチェント)の初代。愛称はトッポリーノ(はつかねずみ)。いわずと知れたイタリア産。映画「ローマの休日」(1953年)に、オードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックがタンデムで乗るベスパを追っかけるカメラマンのクルマとして「出演」しています。
フィアットもエンジンから機体まで製造する航空機メーカーでした。フィアットはこの当時から自動車部門を有しておりましたが、トッポリーノは航空機部門の設計だそうです。
水冷4スト4気筒エンジンは、さすがに時代を感じさせるサイドバルブ。569ccで13馬力、535kg、2人乗り。(上のベスパもそうですが、4人乗せるという発想、というか要求は無かったのでしょうか?)
ミツビシ 500 1960(昭35)年
ミツビシもいわずと知れた名門航空機メーカーで、戦後、糊口をしのぐためのスクーター(シルバーピジョン)生産から始まり、必然的に自動車生産にシフトしてきいました。
(ちなみにゼロ戦のエンジンの方(機体はミツビシ)を造っていた中島飛行機=富士重工は、同じころ、ラビットというスクーターを造っており、こちらも自動車メーカーとなっています。)
昭和30年に通産省(当時)から出された「国民車構想」に応える形でミツビシが初めて自社開発した乗用車。
強制空冷4ストOHV直列2気筒、493cc、21馬力。リアエンジン・リアドライブ。3速マニュアルトランスミッションを介し、最高速度は90km/h。
国民車構想の内容は、定員2~4人、最高速度100km/h以上、30km/Lの燃費、250,000円以下の価格などなど、と要求はきわめて高いもので、ミツビシの500は、それらを完全に満たすものではなかったのですが、その当時の車の中では、もっとも構想に近いという評価を受けていたとのことです。
ミツビシの500が紹介されるとき、必ず話題に出るのが、当時のバブルカーメーカーだったゴッゴモビル(西ドイツ)のスタイリングに強い影響を受けている・・・というくだりなんですが、「お手本」となったのは、おそらく下の画像のT400/300/250(同一ボディに排気量が3種類あった)なんでしょう。
お手本・・・(笑)決して、今の中国の自動車産業を笑えません。
続いて「かわいい」スクーターをご紹介します。
ベスパ 98 1946(昭和21)年
おなじみベスパの初代モデルがこれ。
航空機メーカー、ピアジオ社のスターエンジニア、ダスカニオ技師が直々に設計したベスパは、モノコックボディ、フロント・シングルアーム・サスペンションと航空機から引用された技術を特徴としています。
あのベスパ特有の(わたしの嫌いな)左グリップで行うシフトチェンジは、この初代モデルから採用されています。
イノチェンティ ランブレッタ 125A 1946(昭和21)年
イノチェンティは鋼管メーカーだったゆえか、フレームはパイプ構造を採用しています。
駆動伝達系にシャフトドライブを採用するなど、コストのかかった作りをしています。
ドゥカティ ゾッポーリ モトピッコラZ48 1947(昭和22)年
ドゥカティはこの当時から4ストエンジンを採用して、技術の高さ、燃費のよさを売りにしていました。
乾燥で30kgに満たない軽量な車体ゆえ、最高速度は50km/hまで達したということです。
エンジンは、当時、シエタ社から委託生産を受けていた、有名な「クッチョロ」で、クッチョロというと、たいたい、下のような(自分で用意した)自転車フレーム、大径ホイールの”モペット”仕様が紹介されていることが多く、このような完成品スクーターはかなり珍しいのではないでしょうか。(わたしは知りませんでした)
クッチョロには(当然!)レース仕様があります。余談・・・
イノチェンティ ランブレッタE 1953(昭和28)年
リコイル式のスターター(草刈機の用にロープを手で引っ張り始動するタイプ)を持つのが珍しい。(エンジン前部に見えるハンドルがそれです)
こう見ると、一連のイノチェンティの構造が、一番、現代の日本製スクーターに近いことが分かりますね。
ルーミ フォルミキーノ 1958(昭和33)年
この特徴的なボディは、な、なんとアルミダイキャストのモノコックフレームなのです!!
その構造ゆえか、重量は乾燥で100kgとさすがに重く、それでもたった6psで4速ミッションを介し、最高80km/hまで引っ張るとのことです。
このルーミは日本に程度の良い個人所有者が少なくとも一台あって、しばしば雑誌などに紹介されています。(この車体が”それ”かもしれません)
さすがイタリア人というべきか、このフォルミキーノにも、レーシングバージョンが存在します。
ボルドールと呼ばれていますが、実際にボルドールを走ったのでしょうか?
モトム 98TS 1958(昭和33)年
乾燥75kgの車重を85km/hまで引っ張るなかなかの速さ。
特徴的なスタイリングは、プレス整形した鋼鈑を組み立てたバックボーンフレームにあり、燃料タンクと電装はフレーム中央のふくらみの中に隠されています。また、エンジンカバーの造形は、当時のジェット戦闘機をイメージしたものと思われます。
モトムは日本でほとんど知られていないのではないでしょうか。1947年から71年までミラノに会社がありました。モペットとそのコンポーネントを使った前1輪、後2輪の商用ミニカーが主力製品で、この98TSは、モペットというよりもモーターサイクルに近く、市場的にも、技術的にも、かなり意欲的な製品だったといえましょう。
この手の3輪車はイタリア国内ではポピュラーで、ベスパもAPEというのを出しています。最近の事情は詳しくないのですが、いまだ現行車のはずです。
オートペッド 1910(明治43)年
足こぎスケーターにエンジンを搭載したもので、スクーターの元祖と言われているようです。
こんなものでも(失礼!)、当時、生産国のアメリカ以外に、ヨーロッパ各国でもライセンス生産されたというから、かなり人気があったのでしょう。(現代のセグウエイのような存在感だったのでしょうか?)
ブルックハウス コーギ マークII 1951(昭和26)年
第二次大戦中、英軍がパラシュート部隊用と一緒に降下するバイクとして開発したものが原型で、戦後、民生用にフェンダーなどを追加して仕立て直したものだそうです。
同じころ、日本軍は自転車くらいはパラシュート降下させたんでしょうね。
ベロセット LE マークIII 1955(昭和30)年
スクーターとオートバイの中間的なモデル、なんて紹介されることが多いですね。
LEは、油くさい専業オートバイメーカーが新しい時代に向け、新しい技術で新しい市場を開拓すべく、冒険した意欲作・・・なんて聞きますが、英車はよく知らないので、うんちくはこの辺にしときましょう。
当時の写真から、どういう人に、どういう格好で乗ってもらいたかったかがうかがわれます。
BSA アリエル3 1970(昭和45)年
見てのとおりの3輪車で、スペース効率を追求するための後傾単気筒やら、Vベルトによる自動変速トランスミッションの装備やらで、これも意欲的な作品ですが、パワー不足も祟ってか、市場で受け入れられずに終わったとのことです。