アントニオ・コバスをご存知ですか?
こんな人です。
あっ、間違えた。ホントのところ、こんな人です。
スペイン人のフレーム・デザイナーで、写真は若い頃のもの。(実はガンとの闘病の末、2004年に鬼籍に入っておられます。享年51歳)
フレーム・デザイナーといえばイタ車好きにはマッシモ・タンブリーニが金字塔ですが、2人は同じ時代に活躍しており、タンブリーニと比べても遜色ない・・・いや、同格あるいはそれ以上の存在といっても過言ではないでしょう。タンブリーニの名声が彼の業績にふさわしいものであるとするなら、コバスは過小評価されている・・・と私は感じます。
コバスと同様、タンブリーニも正式なエンジニアとしての教育を受けてはこなかったのですが、両者のアプローチは対極にあると思われます。タンブリーニの作品は理論的、分析的というよりは、きわめて彼自身の美的感性に大きく依存していると私は感じていますが(それが彼の最大の良さでありますが)、そういった独善性ゆえか、彼の作品は、あれほどレースの世界などで活躍しても、決して技術的なスタンダードにはなりえませんでした。
一方、本題のコバスですが、彼がモーターサイクルのフレームの進歩に残した業績はあまりに偉大でありました。現在主流のアルミツインスパーフレームの潮流は、コバスによって生み出されたと言って過言ではないと思います。コバスは、GPシーンにアルミツインスパーフレームを持ち込み、他コンペティターの誰もが、そして大資本のオートバイ製造メーカーまでもが、それに追随したのです・・・
1978 – 81 Siroko for 250/350cc
1952年にスペインの首都バロセロナで生まれたコバスは、1978年、26歳のときに自身のデザインのよるフレームを Siroko より世に出します。Siroko のフレームは、スペインの国内選手権で広く支持され、1981年に生産終了するまでの4年間で52台が製造されました。
画像の Siroko はオッサの250ccのエンジンを積んだ804。
1980 Siroko 804
1980年にはシト・ポンスが世界GPの250クラスにロータックスエンジンを積んだ Siroko で初出場します。(88年、89年連続でNSRでGP250チャンピオンになる彼も、初年は4ポイント28位に終わる)ちなみに、このときの縁で、ポンスは引退後に持った自分のレーシングチームのテクニカルディレクター役をコバスに、1996年からコバスが生涯を閉じる2004年までの間、依頼することになります。
Sito Pons on Siroko in 1980
コバスのフレームに対する方法論は明確。Fフォーク一式が取り付けられるステアリング・ステムからスイングアーム・ピボットまでを強固な部材で一直線につなぐ、というもの。
フレームにかかる最も大きな力はフロントフォークからの入力で、その入力を不安なく受け止めることがフレームの最重要な役割なのです。それを果たす最も最適なフレームは、ステムからピボットシャフトまでを一直線でつないだもの、とコバスは考えていたのでしょう。
Rサスはシンプルなカンチレバー式。ちなみにTZ250では1976年型からカンチレバー式が採用されています。すなわち当時としては平均的なサスペンション方式だったといえましょう。(さらにちなむと、TZ250では1986年型でアルミデルタボックスフレームとなり、同時にRサスペンションはリンク式(モノクロス)となります)
1982 Kobas MR1 & MR2 for 250cc
シトポンスの個人マネージャーであったムリーリ(Murillo)の求めに応じ、アルミニウム板で組まれたボックス材をエンジン脇に2本通す、ツインスパー(spar : 桁)構造のフレームを持つMR1を製作します。それが、グランプリに一番最初に登場したアルミツインスパーフレームとなるわけです。
この1982年より2年間、コバスが発表するフレームを持つバイクには Kobas の名前が冠されるようになります。
MR2 は MR1 の改良版で、両方ともエンジンはロータックス250。ヤマハのエンジンを積んだバージョンもあり、MY1 と呼ばれます。この MR の命名の由来は・・・ヤマハエンジン車が MY であることから、R の意味するところは、Rotax エンジンということが分かります。それでは M は何の略か?私は、monocasco (= monocoque) の M ではないかと思っています。MR のフレームは、分類的にはモノコックではなくアルミツインスパーに当たりますが、コバスは当初、モノコックのフレームを造るつもりで、結果的にアルミツインスパーを生み出したのではないかと・・・
1982 MR1
下の画像はMR1から改良されたMR2のサスペンションです。一見、カンチレバー的な配置ですが、よく見ると、工夫されたリンク構造を持つことが分かります。
また上のMR1と比べ、フレーム側面の穴の径が広げられていることも見受けられます。フレームの剛性量の調整をそこで行っているのでしょう。
コバスのフレームは目を釘付けにさせられるほどにカッコいいのだけれど、カウルをつけると、どうにもドンくさい感じになってしまうのは、コバス全車に引き継がれる伝統でしょうか(笑)ここが同じラテンでもイタリア製との違いか。良いようにとれば、ハッタリを排し機能優先、となるのでしょうか。
1970年代後半から1980年代前半に、タンブリーニがデザインしたGPレーサー他のフレームを比較のために上げておきます。
1974-1981 Bimota YB seriesビモータのGPフレームで最も成功したYB系は、そのシリーズ1から3までの8年間、ダブル・クレイドルの域を出ることはありませんでした。 1974-1975 Bimota YB1 (TZ250/350 engine) 1977 Bimota YB2 (TZ250/350 engine) 1978-1981 Bimota YB3 (TZ250/350 engine) 1976-1977 Bimota HDB (Harley-Davidson Aermacchi engine) series同時期に3種類用意されたHDBでは、500のみチューブラーメッシュ(あるいはバードケージ)フレーム。共用される事の多い250と350では、わざわざ別のフレームを用意しており、250はダブル・クレイドル、350はシングル・オープン・クレイドルとなっています。(なお、オープンとはアンダーレール部がないことを意味しています) 500のフレームはビモータらしい独特な構成となっていますが、コバスのステアリング・ステムとスイングアーム・ピボットを一直線でつなぐという発想というよりも、エンジンをフレームで包み込む手法と受け取れます。また、スイングアームピボットをFスプロケ軸と同軸にするコアキシャル・スイングアームの手法は、メリットがないわけではないですが、現在ではアンチスクワット効果と相反するため、スタンダードではありません。(あからさまに否定する人もいます) HDB1 for 500 class – a tubular mesh frame 250のフレームは成功したYB1そのままといえるダブルクレイドル&2本式リアサスで特に見るべきところはなし。驚くほどコンベンショナルな構成なのは、500の1基、350の2基という生産台数と違って、250は一般ユーザー向けに多数(35基)販売されたものだったからでしょうか。
HBD2 for 250 class – a double cradle frame 350フレームは3角錐を横倒しにしたような形状で、分類すればシングル・オープン・クレイドルにあたりますが、包み込むような形状に剛性感の高さが感じられ、コアキシャル・スイングアームを採用している点も含め、250よりも500よりのフレーム設計思想が見受けられます。 HDB3 for 350 class – a single open cradle frame 1976-1980 Bimota SB1 (TR500 engine)イタリア・スズキの要請で製作されたSB1は、イタリア国内選手権用市販レーサーとして50基も量産されたもので、オープンダブルクレイドルに当たります。 排気量と製作時期が同じHDB1とこのフレームくらいから、タンブリーニ(ビモータ)のフレームは、ステアリングヘッド・ステムおよびスイングアーム・ピボットにかかる力への対応を明確に意識したデザインになっています。しかしまだ方法論は一定しておらず、その2点を一直線につないだコバスほど明快で一貫した回答を、タンブリーニは必ずしも有していなかったことが伺えます。 1984 Gallina SUZUKI TGA1スズキの500ccクラスにおけるワークス活動は1983年をもって終了します。長らくRG500ユーザーであったチーム・ガリーナは、1984シーズンを、83年型のエンジンと独自に開発したフレームとの組み合わせで参戦することにしました。そのフレーム・デザインを依頼されたのが、ビモータを辞したばかりでフリーの状態にあったマッシモ・タンブリーニでした。 技術的な冒険はせず、当時の主流であったアルミツインスパーを選択するのですが、まだまだ不慣れな素材だったゆえか、手堅い構成でタンブリーニらしいクセは見受けられません。これが、彼が初めて世に出したアルミツインスパーフレームではないでしょうか。 |
1983 Cobas SC1
自身のブランドが KobasからJJ-cobas(後述)となる端境期に、バルセロナのレーシングチーム、モトトラックから、当時の最強の4ストローク、ヨシムラ・チューンのGS1000エンジンを積むことができるスペシャルフレームが欲しいという要求があり、それに応じて1台のみ製作されたものが、SC1です。(SC = SUZUKI COBAS の意でしょう)
GS1000エンジンを積むスペシャルフレームには Bimota SB3 がありましたが、SB3フレームには、重心高の低さ、前輪荷重の少なさなど、まだまだ改善できる余地があるとコバスは考え、SB3 フレームをベンチマークにそれを凌駕するという明確な目的のもと製作されました。
以下の2点は重心位置の比較検討画像です。あきらかにSC1のほうがSB3よりも、エンジン重心位置(クランクセンター)が高く、前にあることが分かります。
1983 JJ-Cobas 設立
1984年、コバスは、実業家でレーシングチーム、スクーデリアJJ を運営していたハシント・モリアーナ(Jacinto Moriana)から資金援助を受け、JJ-Cobas(ホタホタコバス)を設立します。
左から2番目がコバス、一番右がモリアーナ
1992年以降、コバスはシト・ポンスが設立したGPチームをサポート、1996年、コバスはポンスチームの専従となるべく、会社から離脱。おって1998年、モリアーナ氏の逝去により JJ-Cobas は解散、消滅します。
1983-84 JJ-Cobas RC Series
JJ-cobas 設立当初は、モンテッサやブルタコのエンジン向けのトライアル用フレームやBMW K100 のエンジンを積んだ耐久レーサーなどを造っていました。
スペインはトライアルの本場であるので、コバスも力の入ったフレームを連作しているのですが、ここでは簡単に触れるだけにしておきます。
Montesa version
まだまだ2本式リアサスが主流だった中、リンク式モノショックの採用が先進的といえます。また、ダブル・チェーン・システムと呼ぶ、クランクケース左から出た出力を、スイングアームピボット軸上を通し、右に出して後輪に伝えています。これは、ビモータのコアキシャル・スイングアームとは違ったやり方で、チェーンにかかるテンションの均一化を図るものです。(トライアルにおいてはチェーンによるスイングアームのスクワット効果は不要のものなのでしょう)
Bultaco version
1984 JJ-Cobas RK1
RK1フレームは、パッと見のパイプワークこそ異なるものの、SC1と同様に、大きく重い4ストローク・大排気量エンジンは、高く&前寄りに搭載すべきというコンセプトは堅持されているように見受けられます。
オリジナルK100との比較。2車は、フロントアクスルを基準に重ねてあります。
意外にもキャスター角はほとんど変わらないものの、エンジン位置は高く、前に置かれていることが、はっきりと分かります。
1984 JJ-Cobas TR1 & TR1-C / 1985 TR2-C / 1987 TR3-C / 1989 TR4-C for 250cc
まもなく、2ストローク・ロードレース用エンジンを積むフレームを発表します。それが TR1 です。
MR のアルミツインスパーフレームは時期尚早と判断されたのか、TR1 ではマルチチューブラーに戻されます。TR は (Tubo Rotax から命名されていると思う次第)
1984 TR1 with Caldos Caldus
MR系とTR系との比較。フレーム素材がアルミであってもスチールであっても、フレーム構造の方法論は変わっていないことが分かります。変わっていない理由は、新しいアイデアが出なかったからではなく、この方法が最良である自信によるものと思われます。
TR系のRサスも一見、カンチレバー風なのですが、リンク構造を持つものです。
1986 JJ-Cobas JC2 for 250cc
KTMのモトクロス用250cc単気筒エンジンを積んでいます。2気筒エンジンに比べ、軽量であることを武器にすべくとの考えに基づくものです。
とはいえ、JC2はマルチチューブラーのTR系がまだ存続している中、突然出てきた感があります。一年のみで消えているし・・・250ccクラスのフレームをアルミツインスパー化に向けてのテストヘッドを兼ねていたのでしょうか?
1986 TA1 / 87-88 TA2 / 89 TA3 for 80cc
80ccクラスに向け、新規に出してきたフレームがTA系です。このフレームで注目したいところは、上のJC2と全く同じ設計で作られているということです。さすがに同じ大きさではなく相似形ですが。80のフレームが初めにありきで、それを拡大して造ったのが JC2 だったんでしょうか?
こちらがコバスと同じエンジンを積む、同じスペイン製のアウティサ (Autisa)。80ccクラス特有の繊細なパイプワークに対し、コバスは見るからに剛性感の高いアルミツインスパーで打って出たわけです。
詳しい事情は知りませんが、アウティサのフレーム・デザインは、コバスのTB系フレームに酷似しているように見えませんか?同じスペイン製、なんらかの影響関係にあったのでしょうか?
Autisa 80
ちなみにアウティサは、アレッシャンドレ・バロスが1986年、WGPデビューする際に乗ったバイクです。この時バロスはわずか15歳で、エントリーに必要な最低年齢16歳を満たしていなかったという話。
1987 JJ-Cobas JY4 for street use
コバスのロードバイクはRZ350のエンジンを積んだJY3と、初期型TZR250(1KT)のエンジンを積んだJY4が存在します。(JY1とJY2は??)フレームの原型はJC2ですね。
JY3
JY4
JY4は、バブル経済の下、空前のバイクブーム(レプリカブーム)に市場が沸いていた日本からのオーダーで製作されました。お値段は、¥2,180,000(1989年2月当時)。
発注元は東京は大田区の、バイク屋としては大会社とはいえ、一販社に過ぎない羽田ホンダ販売!!ちょっと驚き。どういう縁だったのでしょう?いや、他に商社かなんかが発注元にいて、ハネホンは販売チャンネルとして表に出ていただけなのでしょうか?
上の画像にある通り、製作は贅沢にも、コバスのファクトリーで、コバスの指揮下で行われ、JY4は、正真正銘のコバス車といえるものでしたが、エンジンは所詮TZRで、日本におけるコバスのブランド力(の弱さ)と相まって、いくらバルブ経済下であっても、その価格では、想定顧客の財布のひもを緩めさせることは至難の業であったのではないと思われます。
ハネホンでは10台程度を売ったそうですが、87年発売開始ですが、89年時点で、まだ新車の在庫があったようなので10台を売り切るまでどれだけの時間がかかったのでしょうか?
私も当然、当時から存在は知っておりましたが、2スト250であること、なによりプライスの高さで自分には無縁の存在でありましたね。
下に現地版カタログがあるように、全てが日本に送られたわけではなく、地元でも販売されたようです。(カタログのJY4のロゴに使われているバンブー・フォントが・・・東洋のイメージなんでしょう)
JY4発売当時のインプレビデオを観て驚き!Fフォークのトップブリッジに対する突き出し量が、マイナスではないですか!!いや、マイナスではないな・・・よく見ると、トップブリッジにツライチで勘合されているアウターチューブ的パイプが見られます。
なんなんでしょう?短すぎるフォークを無理矢理を付けている?ラテンの、間違って発注しちゃったけれど、これでいいじゃん的なノリで・・・深読みすれば、Fフォークの剛性感をこれでチューニングしているとか??
なんにせよ、そこって雨水がたまっちゃうよね!
1987 TB1/TB2 for 125cc
80cc用TAフレームを拡大し、125ccエンジンが載るようにしたTBフレームを製作します。
MBAエンジン用がTA1、ロータックス・エンジン用がTB2となります。
1988 TB5 for 125cc
TB系の2作目がTB5で、新型になったロータックス・エンジンが載るようになっています。
1989 TB6 for 125cc – World Champion
TB5の89バージョンがTB6で、アレックス・クリヴィーレが125ccチャンピオンを獲得しました。
1989 World Champion 125 Àlex Crivillé
1989 JJ-cobas PV51 for 250cc
PV以前の250cc用フレーム TR 系は鋼材によるマルチチューブラー方式で、ロータックスのタンデムツインエンジンを積むようになっていましたが、1989年にロータックスVツイン用アルミツインスパーの開発を開始します。プロトタイプがPV51と呼ばれ、翌1990年に改良版のPV61およびPV62を登場させます。
1990 PV61 & PV62 for 250cc
Jorge Martinez (24th position)
1990 TB6 for 125cc
前年ワールドチャンピオンを獲ったTB6フレームは翌90年も使用されます。
Jorge Martinez (6th position)
1991 PVH21 for 250cc
ほとんどロータックス専用フレームであったコバスが、はじめてホンダ RS250 エンジンを積みます。
Alex Criville (13th position)
1991 TB7H & R for 125cc
1991年、125ccクラスでのコバスフレームユーザーは7名にもおよび、JJコバス・ワークスチームは RS125 エンジンを使用( TB7H )、ほかユーザーはロータックスエンジンを使用しました( TB7R )。
TB7H – Jorge Martinez (6th position)
TB7R – Julian Mirra
1992 JJ-Cobas PSH for SOS
PSHは、SOS (Sound Of Singles)といったシングルレースが世界的ブームだったころに製作されました。GP250 用の PVH フレームの基本設計を流用しているように見えます。エンジンはホンダXR600。シリーズ化を狙っていたものの、この後は出なかったとのことです。
ちなみに、DR800のエンジンを持つ GALLINA TGA6 が1991年、DUCATI Supermono が1993年、Bimota BB1 が1995年のデビューとなります。
このころになると、アルミツインスパーはレースシーンはおろか、市販車においても大多数を占め、陳腐化しており、もはやコバスらしいキレの良さが見られないように感じられるのは残念に思われます。
下の画像はロータックス製600ccシングルを搭載したモデル。Mick Waker の著書には1990年型とあります。正式な名称は知りませんが、コバス流の命名法にのっとれば、PSR (P type frame Single Rotax) となるのでしょうか。
Mountain Bikes
1990 Steel-Tubing frame
1993 JJ-Cobas FS (Alumi-monocoque frame)
以下にコバス歴代モデルをまとめておきます。
コバス歴代モデル
GP250/125/80モデル時系列比較
コバス/TZ/RS 年式別比較
1982年にコバスがアルミツインスパーフレームを世に出した頃、4大メーカーのワークスチームはどのようなフレームで戦っていたのか、最高峰である500ccクラスの状況を1982年の前後1年ずつを含む計3年間でレポートいたします。
HONDA1967年のGP撤退から12年後の1979年、ホンダは突如、WGP500ccクラス参戦を開始します。当時主流の2ストロークエンジンではなく4ストロークエンジンでの挑戦でしたが、1979年から1982年までの4年間で1ポイントも採ることなく(=決勝10位以内に入ることなく)、プロジェクトは2ストエンジンを積むNSに引き継がれることになりました。 1981 NR5001979年モデルの野心的だったが実戦向きではなかった自社製モノコックフレームから、1980年モデルの間に合わせの社外(マクストン社)製鋼管ダブルクレイドルフレームを経て、1981年モデルはオーソドックスな社内製鋼管ダブルクレイドルフレームに落ち着きます。これは、まずはエンジン開発に注力し、フレームは冒険を避けるという判断ゆえの選択と思われます。 1982 NR5001982年モデルには前年の鋼管をアルミ角パイプに置き換えただけといった手堅いデザインを持つダブルクレイドルフレームが用意されますが、この年にデビュー即活躍を始めたNS500の影に隠れた存在に終始しました。 同年型のNS500においてもNRと同様に、フレーム材を鋼管で開発した後、アルミ角パイプに置き換えるという開発手法が採用されている(後述)のは興味深いものがあります。 1982 NS500プロトタイプは鋼管製ダブルクレイドルフレームで開発されていましたが、フレーム形状はそのままに、素材がアルミ角パイプに置き換えられたものが実戦デビューします。
#40 NS500 スペンサー車 1983 NR500 – Experimental carbon frame1983年の東京モーターショー展示車。フレームからFフォーク・インナーチューブ、スイングアーム、ブレーキディスク、ホイールといったあらゆる重量構造物がカーボン材で製作されています。(カーボン製パーツの歴史については後述いたします) あくまで実験車に過ぎなかったのか、あるいはNSの活躍がなければ実戦を走ることになっていたのか・・・ 1983 NS500 – Experimental carbon frameNRと同じころ、NS500でもカーボンフレームが極秘裏に開発されていました。素材はともかく、形状はコバスフレームそっくり・・・否、典型的なツインスパーであることは注目に値するといえましょう。(ちなみに1985年および1986年に、カーボンハニカム製モノコックフレームのマシンが、ヘロンスズキより実戦で走っています) [Memo] モータースポーツにおけるカーボンパーツの歴史宇宙開発から生まれたカーボン材は、1971年に航空機用ディスクブレーキに初めて民生利用されます。以後、民間航空機においてカーボン・コンポジット製ディスクは幅広く普及していきます。 次いで四輪レーシングマシンに採用されます。1981年、F1マシンのモノコック・シャーシ素材として採用されたのが、初の実戦的かつ大規模な利用となります。1981年時点、カーボン・モノコックをモノにしたチームは、ロータス(タイプ88および87)およびマクラーレン(MP4/1)でした。 Lotus 88 / McLaren MP4/1 同じ1981年、ホンダNR500でカーボン製のホイールとフロントフォーク・インナーチューブが実用化されました。 1982年、ホンダNS500で、カーボン製のスイングアームが実戦投入されます。また、カーボン製ブレーキディスクも開発され、リアブレーキは実戦投入も行われました。 1983年の東京モーターショーでは、参考出品モデルとしてあらゆる重量構造物をカーボン材に置き換えたホンダNR500が出展されました。同時期にはカーボン製ツインスパーフレームのホンダNS500が秘密裏に試作されています。(上述) 1984年、ウイリアムズ・ホンダ FW09がホンダエンジン車では初のカーボン材をアルミモノコックシャシの一部(バルクヘッド)に採用します。 Williams Honda FW 09 翌1985年、ウイリアムズ・ホンダ FW10でフル・カーボンモノコックシャーシが採用されます。F1界では遅れての採用でした。 1985年、4輪シャーシコンストラクター・童夢が、鈴鹿8時間耐久レースにカーボンモノコックフレームを持つ DOME DCFI BLACK BUFFALO を出走させます。(決勝リタイア) 1985年および1986年、ワークス撤退後のスズキ英国チーム・ヘロンスズキが、スイスの化学会社チバガイギーの協力の下、カーボンハニカム製モノコックフレームのマシンを、WGP500ccクラスで走らせました。 1984 TSR-4 当初、航空機用アルミハニカム材が使用されました。
1985 TSR-5 / 1986 TSR-6 5と6はフレームは変わらずエンジンが変わっています(XR40→XR70RV)。 1988年、WGP第12戦イギリスGPでAPロッキード製カーボン・ディスクが初めて実戦で優勝します。(YAMAHA YZR500(OW98)・ウェイン・レイニー車) 1991年、F1において、モノコックへの次にサスペンションアームでカーボンが採用されました。破断の恐れが予測されたため、レギュレーションで中に鉄芯をいれる条件が附されたものの、ジョーダンで使用が始まり、まもなく、オール・カーボン製アームの使用が許可されるようになりました。 1991 Jordan 191
YAMAHA1981 YZR500 – 0W53 並列4気筒最終モデル。 1981 YZR500 – 0W540W53とほぼ同じフレームに、新開発のスクエア4エンジンを搭載したモデル。 1982 YZR500 – 0W60 スズキの成功に触発されたであろうスクエア4エンジンを搭載したモデル。 1982 YZR500 – 0W61 初のV4マシン。 1983 YZR500 – 0W70 ついにデルタボックスフレームを採用します。 SUZUKI1981 RGΓ500 – XR35この年に名称をRGBから RGΓに変更。マルコ・ルッキネリのライディングでワールドチャンピオンのタイトルを獲得します。(メーカー・タイトルは6年連続で獲得) フレームは81年の途中から、ダブルクレイドルのまま、素材を鋼管からアルミ角パイプに変更されます。エンジンは一貫してスクエア4。
1982 RGΓ500 – XR401981年に続き、フランコ・ウンチーニがワールドチャンピオンのタイトルを獲得します。(メーカー・タイトルは7年連続で獲得) 1983 RGΓ500 – XR4583年のGPは有名なフレディ・スペンサーとケニー・ローバーツの一騎打ちの年で、スズキ勢はシーズンを無勝利で終えることになりました。(スズキ・ワークスはこの年をもってGP活動を停止) 83年型のフレームは、初期は角ばったものが、後期はフレームのメイン材が太くなったものが使用されています。
KawasakiカワサキのWGP、500ccクラスへの参戦は1980年から1982年までのわずか3年間。その3年渡り、フレームはモノコック構造を採用しています。 1981 KR50080年、81年は従来形状のフューエルタンクがモノコックフレームの一部となるような構成でした。 1982 KR50082年型はバックボーン形式とモノコック構造を組み合わせ、その上にダミータンクをかぶせていました。(ガソリンはバックボーンフレーム内部に格納) |
さて長い長い前置きはここまで。ここから、本題であるコバスとドゥカティの結びつきについて述べていきたいと思います。
1982 Tecfar-DUCATI TF1 & TF2
Ricardo Fargas との共同作業による。
1983 Tecfar TF3
DUCATI WORKS