マエダ工業創立60周年記念事業として編纂され、1982年4月に発行された社史。発行部数限定の非売品であったため、今ではサンツアー「信者」にとって「聖典」と目され、ネットオークションに出物があれば、1万円以上の値が付くことがあります。(私は2万数千円で落札されたのを見たことがあります)


貴重であることは否定しませんが、率直に言って、血眼になって探すほどの本ではございません。自転車マニアにとっての読みどころはごく一部に限られており、その読みどころを、当方のセレクトになりますが以下にてご紹介します。

題字

河合淳三社長によるものでしょうか?




目次


巻頭グラフ マエダ工業は、いま・・・

 

 

 

 

 


河合社長へトップ・インタビュー

これは全文掲載すべきでしょう。腹をこわしたとき・・・ビールを飲んで下痢を治してしまう・・・無理!!(笑)







海外からの祝辞

なんと漢詩でマエダ工業を讃えているのは、言わずと知れた「ジャイアント」の「キング・リュー」。そして「功学社」はわかりにくい・・・「KHS」のことです。今でもKHSブランドで自転車を作っていますが、もともとは戦前からのヤマハ楽器の台湾輸入元、その縁でオートバイ製造の台湾ヤマハをヤマハ本社と共同経営、とジャイアントに勝るに劣らない大出世を果たしています。日本統治下の台湾で育ち、日本語ペラペラの謝敬忠氏の祝辞は翻訳ではありません。



欧米からの祝辞には、当時のビッグネームが並んでいますが、台湾勢とは真逆で・・・今となっては、(サンツアーも含め)すべてが懐かしいブランド名となっています。



マエダ工業六十年の歩み

社史というものは概ね、美化されたり、誇張されたり、都合の悪いことは省かれたりするものですが・・・エポックと思われる個所を抜粋掲載いたします。

河合淳三の入社

シマノ同様、マエダもガチガチの同族会社なのですが、なぜ社長の名字が「前田」ではなく「河合」なんだろう、と疑問に思ったことはありませんか?「養子」云々のくだりは聞いたことがあるが・・・という人も、これを読めば、その疑問は氷解します。


↑ 赤個所は当方による追記。1~3の数字は歴代社長の順。前田鐵雄氏、陶守昭三氏は本社取締役として、河合一郎氏はサンツアーUSA社長として在籍(当時)。



サンツアーとの出会い

提携先の岩井製作所の倒産で終わった(しかしサンツアーの商標は手に入れた)有名な失敗譚。前田が岩井から回収不能となった昭和30年時の4,000万円は、現在の物価では約12倍の4億8千万円に相当します。


岩井=前田提携時代の広告(1957(昭和32)年)。ラジオ東京(現TBSラジオ)の番組(サンスターミュージックアワー「虹の調べ」)への提供も行うなど、華やかに商売を進めていますが、裏の事情はマエダの社史で書かれている通り。翌1958(昭和33)年春、岩井製作所は倒産してしまいます。


嗚乎、愚者(コケ)の一念・・・

後のサンツアー連合の基盤となった「JEXグループ」の原型、知る人ぞ知る「JASCAグループ」設立の経緯について書いてあります。



河合、厄年の旅立ち

マエダはフランスの変速機メーカー「ユーレー」の「ズベルト」のCKD(Complete Knock Down 完全ノックダウン)生産を行っていた、いやそんな(不名誉な)ことはしていない、という論争(?)があります。それに関するヒントがここにあるのではないかと・・・



1966(昭和41)年の広告には、サンツアー製品に並んでユーレー・ズベルトがリストされています。

はたして「勉強がてらに部品を買い付け」る程度のことに、総合商社の手を借りる必要はあるのか?さらに年に1万セットもの膨大なノルマを課される必然性は??自社製品を売るのに四苦八苦しているような「製造」業者が、なぜわざわざ他社の製品を輸入してまで「販売」しなければならなかったのか???

三井物産から、ユーレーの変速機を前田鉄工所でCKDしてみないか、との提案があったというのが真相ではないでしょうか?

三井物産が描いた絵図は・・・三井物産がユーレーから年1万セット分の変速機を未組立の状態で輸入する。それを前田の工場で組み立て、前田の持つ販路を使って日本市場に流す・・・というもの。日本でCKDする理由は、お決まりの、高率の完成品関税の回避や、労働力の安さといったところでしょう。(さらに大っぴらにされることのない理由もあります。それなりに技術力があるコピー企業にOEMを任せることで、「それなりに優れたコピー品」が市場に流れてしまうことを阻止できるというものです)

一方、CKDには技術移転の意味合いが強くあるため、前田鉄工所はユーレーが持つ有形無形のノウハウを吸収できる・・・まさに「勉強」なわけです。

上の文章は、「商社を介してユーレーとのCKDを契約した。年1万セットの販売ノルマを課されたが、本場ヨーロッパの技術を習得する絶好の機会なので取り組むことにした。JASCAグループの仲間にも、似た案件を斡旋した」ということを、自らのプライドを充足する形で表現した、と私は理解しましたが・・・

JASCAグループの吉貝機械金属(後に「DIAコンペ」のブランドを有し、サンツアー連合に参加する盟友)も同じ頃、スイスのワインマン製ブレーキのCKD生産を行い、「DIAワインマン」のブランドを展開していました。この事実は隠されていません。はたしてこれは、前田=ユーレ―案件と無関係でしょうか?

ユーレーのCKDは初代サンツアー・スキッターとして結実したと言われ、ユーレー製ディレイラーとよく似たニュアンスを持つスキッターを見た外国人のうち少なくない数が、(出来の良さから)ユーレーからのOEM製品と誤認した、という逸話が残されています。

その頃の時系列は以下の通り
  

  1963(昭和38)年11月 河合淳三、渡欧

  1964(昭和39)年   ユーレーとの提携開始

  1964(昭和39)年 4月 初代サンツアー・スキッター(マエダ初のパラレログラモ機構を実装)販売開始

  1964(昭和39)年12月 サンツアー・グランプリ(世界初のスラントパンタ機構を実装)販売開始

  1965(昭和40)年 4月 サンツアー・ニュー・スキッター(スラントパンタ機構を実装)販売開始

  1966(昭和41)年   ユーレーとの提携終了
 

ここで気になるのはユーレーとの提携開始から初代スキッター発売までの時間の短さですが・・・ユーレーと接触する前に、すでにコピー式開発は始まっていた・・・と考えるべきでしょうか。


十年目に報われた執念



海外にひろがる市場 - アメリカに進出 - ヨーロッパへ




自転車業界のサンツアーであること ― ミニサイクル開発



仕事八訓


世界の五大部品メーカーの一つとなる。


B・M・Xへの関心



サイクルスポーツの新しい味わい


わが”サンツアー”が永遠に不滅であるために

ヨーロッパのメーカーのような状態にならない・・・という強い決意は、たった10年たらずで脆くも崩れさり、ヨーロッパのメーカーよりも悪い結果に終わったというのは周知の事実です。

ユーレーやサンプレックスは、早々に舞台から退場しましたが、カンパニョーロは、激しい浮き沈みがあったにせよ、現在まで第一線でシマノの競争相手であり続けています。


サンツアー、旅の終わり

サンツアーの終焉について、いろいろな人が、いろいろなところで書かれていますが(すでに、1998年カナダ・オタワで行われた「第9回 国際自転車歴史会議」で発表された Frank J. Berto による Sunset for SunTour という決定版がありますが)、あえてここに書かせていただきます。

JASCA、JBM、JEX グループ

1921(大正10)年創業のシマノ、1922(大正11)年創業のマエダ工業、いずれもフリーホイール生産から始まり、いずれも戦後に変速機生産に着手しています。両社とも変速機メーカーとしては後発でしたが、淘汰の時代を経て、シマノ、マエダの2社だけが国内に残りました。

高度成長期に入った60年代初頭、両社は志同じく JASCA (Japan Sports Cycle Association) グループに属していましたが、早くも60年代末には、シマノ率いるJBM (Japan Bicycle Manufacturers) グループとマエダ工業率いるJEX (Japan Bicycle Parts Manufacturers Group for Export Promotion) グループとに袂を分かつことになります。

サンツアー連合結成

両社の命運が分かれる経営判断があったのは1970年代半ばのこと。

その頃シマノは、現在に続く「コンポーネント」戦略に大きく舵を切ります。当初はカンパニョーロの「グルッポ」よろしく総合パーツメーカーとしての体裁を重視したものと思われましたが、決してその程度の枠に収まっているものではありませんでした。その戦略は、「パーツ開発の最適化」を助け、(AXほか、いくつかの失敗はありながらも)FF、PPS、UG、SIS、HG、STI・・・といったイノベーションを生み出し、さらに「顧客の囲い込み」も確固たるものにしたのです。

マエダ工業は、自らがフリー屋、変速機屋であることにこだわり、JEXグループ参加企業との共存・共栄を重視しました。JEXグループ内で共通ブランドの使用・・・「サンツアー連合」を組むことでシマノのコンポーネント戦略に対抗すると決めたのです。(なんにせよ、マエダの企業規模では、総合パーツメーカーへ転身は容易ではなかったと言えましょう。例えば、マエダ絶頂期とされる1980年代半ばで、シマノとマエダにおいて、従業員数で3倍、売り上げ高で4倍、開発人員数で10倍ほどの差がありました)

とはいえ、シマノとサンツアーの差は、まだ決定的なものではなく、むしろサンツアーは、量的にはともかく、質的には互角以上の戦いをしていたと言え、命運を分けるようになるまで、10年ほどの時間的猶予があったのです。

北米市場での戦い

1970年代初頭から北米で始まった10スピード車の一大ブームで、ヨーロッパ製パーツだけでは供給不足となった北米市場に、日本メーカーは食い込む機会を得ます。シマノとサンツアーは、安価・高性能を武器に、低中価格帯車においてはヨーロッパメーカーを淘汰し、寡占を果たします。以後、2社にとって、巨大な北米市場は、国内市場以上に重要な「頂上決戦の場」となります。

マエダ絶頂期1982年の北米における低中価格帯車のシェアは、シマノ30%、サンツアー60%という形で分け合っていました。(国内市場では両者の関係は真逆で、シマノ70%、サンツアー30%でありました)

1980年代半ばに起きた、「マエダの持つスラントパンタ特許の失効」、「MTB市場の急成長」、「SISの登場」、「プラザ合意による急速な円高」といったトピックは、両社の力関係に大きな影響を与えました。マエダ工業はこれら「変化」に適切に対応できなかったのです。

1986(昭和61)年の北米シェアにおいて、シマノ50%、サンツアー40%と初めて逆転され、これ以降、サンツアーは、1987(昭和62)年 30%、1988(昭和63)年 25%・・・1992(平成4)年 10%、1993(平成5)年 5%と成す術もなくシェアを落とし続けていました。

バブル経済下にあった日本では、誰もが空前絶後の好景気を甘受していたにもかかわらず、マエダは年々ジリ貧になっていたのです。

モリ工業体制下

1990年代に入ると、マエダ工業は大量の不良在庫に財務が圧迫され、いよいよ経営は立ちいかなくなってしまいました。ここで、ステンレス鋼管製造を主力事業とする(関西ではステンレス製物干し竿「きらきらポール」で知られた)「モリ工業」が、マエダ工業救済に入ったのです(1991(平成3)年10月)。

実はモリ工業は、その前年、サンツアー連合の一角をなす栄輪業の経営支援に入っており、まもなく連合盟主の運命共同体、マエダ工業にも手を差し伸べたという経緯でありました。バブル景気に沸くモリ工業は、お金の使い道を探していたのです(笑)

モリ工業からの資金導入で息を吹き返した前田工業は「MD(マイクロドライブ)」を引っさげ1992年の商戦に挑みました。(MDは公平に見て優れたコンセプトで、後にシマノも同様な製品を世に出しています)ショーでは、バイヤーたちの反応に好感触を得たものの、実際の注文は期待に程遠いもので、サンツアーはシェアをさらに落しただけに終わりました。

1993(平成5)年7月、栄輪業は「SRサンツアー」に社名変更し、同年10月、マエダ工業はモリ工業子会社のモリ金属と合併し、「モリ・サンツアー」となるものの、それで業績が回復するわけでもなく、相変わらず巨額の赤字を垂れ流し続けていました。ついにモリ工業は、自転車事業からの撤退を決め、1995(平成7)年4月、SRサンツアーを売り飛ばし、モリ・サンツアーの社名を元のモリ金属に戻し、すべての事業活動を終結させました。

廃業後・・・

SRサンツアーは、幸運にも、と言ってよいのでしょう・・・栄輪業の2代目社長でSRサンツアー社長を務めていた「小林大裕」氏によってバイアウト(買い戻し)されました。「栄輪科技」が、栄輪業の台湾工場を使って設立され、SRサンツアー・ブランドを再出発させています。皮肉なことに、日本を捨て台湾に根を下ろした栄輪科技は、安定に事業を続けることができています。

一方、事業整理後、不要になったであろうサンツアーの変速機関連の生産設備を譲り受けようと、モリ金属に接触した者は少なからずおりましたが、彼らが得られたものは、撤退時にすべてゴミとして廃棄したという悲しい事実だけでした。


「ウソのサンパチ」か「末ひろ」か


BSAのトレードマークって、あんなのだったときがあるんですか?当方、寡黙にして知りません・・・私の知っているのは、以下の図案です。BSA は Birmingham Small Arms Company(バーミンガム小火器会社)の略で、会社は銃の製造から始まったゆえです。

当時の歩兵は「叉銃」といって、3丁の小銃を画像のように組み合わせて保管したのです。

マエダの社史に描かれているBSAのマークって、シマノのものに寄せられていると思いませんか?シマノが一番BSAをマネしたんですよ、と言わんばかりに。

ちなみに、実際のシマノはこんな感じで、「TRADE MARK」の文字も入って、よりBSA寄りになるのですが(笑)

マエダのマークの方がシマノよりBSAに近い、というか、ほとんど一緒なんですよね(とはいうものの、この商標を付けていた時代のマエダ製品を未だ見たことはありません)

シマノの333は遠目にBSAと見間違えるように選ばれたものでしょう。マエダの888もシマノが333なら888で見間違えてもらおうと・・・888でサンパチ・・・三八式歩兵銃とゴロが合っている!・・・ならば、BSAよろしく銃を3丁並べてしまえ!という感じで決まったのではないかと想像できます。

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自転車狂

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1975年に河合淳三氏が社長に就任すると、1978年、限定1000部、豪華装丁、全21枚のイラスト集の頒布が行われました。頒価10,000円の記載があります。

元ネタは、1865年~70年頃に描かれた作者不詳の「Vélocipédomanie」というフランスの画集。

無料で配られた銀輪讃歌がマニア間で高値を誇っているのに対し、こちらの評価は高くなく、出物があっても数千円で取引されています。



随所で使用されることでよく知られた重役会議の画像。壁をよく見てください。件のイラストが額装で飾ってあります。