Weird-ohs
60年代のアメリカは、モンスターとホットロッドの大ブームの最中にあった。
アメリカ最古のプラスチックキットメーカーのひとつ、1928創立シカゴの「ホーク」社のボックスアートを担当していたフリーランスのイラストレーター、「ビル・キャンベル(Bill Cambell)」は、すでに人気を得ていたエド・ロスの作品にインスパイアされ、ホットロッドマシンに乗ったモンスターをデザインすることを決めた。1963年の春、ビルは、後に「DADDY」、「DAVEY」、「DIGGER」として世に出る3体のほかに、ボツとなった2体を合わせた計5体のキャラクターの立体モデルを、バルサ材や粘土を使って製作し、ホークに持ち込んだ。それらは高い評価を受け、急遽、製品化が進められることになった。
そのシリーズ名は「WEIRD-OHS」と命名された。その年秋に開催される全米最大の見本市シカゴ・ショーにデビューを間に合わせることができた。初日に25万セットの注文が入ったのを皮切りに、生産が追いつかないほどの注文が続いた。WEIRD-OHSはホークのドル箱商品になるどころか、社会現象となった。プラスチックキットを皮切りに、レコード、カード入りガム、ゲーム、ステッカー、ヘルメット、パズル、フィギュア、ハロウィーン・マスク、文房具など多方向に商品展開されている。
Daddy – The Way Out Suburbanite (racer; aka. “the Swingin’ Suburbanite”) 1963
Davey – The Way Out Cyclist (outlaw motorcycle club rider: “He’s a Psycho cyclist! This cat’s a terror on the road …”) 1963
Digger – The Way Out Dragster (racer) 1963
Drag Hag – The Bonny, Blastin’ Babe (racer) 1963
Endsville Eddie – The Shortstop Stupe (racer) 1963
Francis the Foul – The Way Out Dribbler (basketball player) 1963
Freddy Flameout – The Way Out Jet Jockey (test pilot) 1963
Huey’s Hut Rod – The Way Outhouse Bomb (racer) 1963
Killer McBash – The Dazzling Decimator (football player) 1963
Leaky Boat Louie – The Vulgar Boatman (motorboater) 1963
Sling Rave Curvette – The Way Out Spectator (race fan) 1964
Wade A. Minut – The Wild Starter (race ‘official’; aka. The Timeless Timekeeper) 1964
Weird-Ohs Weirdsville Customizing Set 1964
Davey / Digger / Louie の3体に、カスタムに使うアクセサリを同梱したキット。ボックスアートには、ビル・キャンベルによるイラストではなく、キットの実写画像が使用された。
The sounds of the Weired-Ohs
Silly Surfers
60年代はサーフィンブームでもあった。
SILLY SURFERS(おバカなサーファーたち)は、カリフォルニア在住のデザイナー、ルーベン・クレイマー(REUBEN KLAMER)の発案で、造形家のボブ・アレン(BOB ALLEN)とメル・ショー(MEL SHAW)によって立体モデルが作られた。ホークに持ち込まれた時には、6体すべてのキャラクターが準備されていた。用意されていなかったボックスアートのみ、ビル・キャンベルに依頼された。
Beach Bunny (“Beach Bunny Catchin’ Rays”) 1964
Hot Dogger Hangin’ Ten 1964
Hodad Makin’ the Scene (“Hodad Makin’ the Scene With a Six Pack – Detailed Personable Pelican and Crusty Crab, Insect Pests, Sand Crawlers, Etc., included”) 1964
Riding Tandem (“Hot Dogger and Surf Bunny Riding Tandem – The Dazzling Duo of the Surf – Goony Gull, Crusty Crab & Friendly Fish included”) 1964
Woodie on a Surfari 1964
SURF MONSTER HANGIN’ SIX (unreleased)
Silly SurfersはWeird-Ohsほどのセールスを挙げられなかった。その理由は”モンスター不在”と判断されたのかもしれない。シリーズにサーフボードに乗ったモンスターを追加することが企画され原型まで作られたが、企画はそこまでで中止されている。
The sounds of the Silly Surfers
Frantics (the frappin’ family of fidgeting…)
ビートルズ・ブームに目を付けたクレーマーは、続いてFRANTICSを企画する。SILLY SURFERSと同じく、ボブ・アレンが造形を、ビル・キャンベルがボックスアートを担当した。
THE SILLY SURFERSとTHE FRANTICSはWEIRD-OHSシリーズに組み込まれた。両者は本家WEIRD-OHSほどの成功はなかったが、ヒットといえる結果を得られている。
Steel Pluckers (guitarists: “Bopped out Steel Pluckers having A Bash – the twangin’ and sangin’ stars of the Sappy Swingin Sixties”) 1965
Frantic Banana (drummer: “Frantic Banana Punishing The Skins – car plugs not included in this kit”) 1965
Frantic Cats (dancers: “Shifty Snuffling at its best – This is the Livin’ end!”) 1965
Totally Fab (guitarist & groupie: “…Screamin’ Meemies Two Legged Model of Fort Knox & Security Guard”) 1965
CHICK, I GO APE OVER YOU (unreleased)
FRANTIC BABY-SITTER (unreleased)
芸術家ビル・キャンベルの伝記
ホーク・プラスチックモデルを描いたイラストレーター
By Bill Campbell and Edited by Alan Bussie
ビル・キャンベルは、商業アートワークとマーケティングの分野で安定した成功を収めてきた。模型界では、彼は250以上のボックスアート(主にホークモデル)で知られ、奇抜で人気のある「ワイアード・オー」モデルラインのクリエーターとしても知られている。忘れもしない偶然の出来事のひとつは、このホームページのことを知ったビルからメールで連絡があったことだ。彼のアートワークの大ファンである私は、彼の全貌を伝えたいと思い、情報を提供してくれるようビルにお願いした。
幼少期
ビル・キャンベルはマサチューセッツ州バンカーヒルで生まれ、3年後に家族でシカゴに移り住んだ。5歳のころには、アーティストになりたいと思うようになっていた。近代的な交通機関に魅せられた彼は、しばしばこれをテーマにした。自由な時間には、エングルウッド駅の強力な機関車やシカゴの市営空港の初期の航空輸送機をスケッチしたり、写真に撮ったりした。サウスサイドの小学校に通い、ハイドパーク高校で美術と音楽を専攻した。当時のハイドパークには、メル・トーメとスティーブ・アレンという著名人がいた。ビルはメル・トーメのバンドにドラマーとして参加し、スティーブ・アレンとは文学の授業で知り合った。
1933年にシカゴで開催された万国博覧会の1934年の再開催で、ビルはホークモデル社のブースを見つけた。彼らは、しっかりとした射出成形の完成品の飛行機模型を展示していた。その模型は高価だったが、美しく、彼の想像力をかき立てるものでだった。その30年後、彼とホーク社が今日まで続く模型の歴史を作ることになるとは、彼は少しも知らずにいた。
専門教育と初期の仕事
高校卒業後、ビルはシカゴ・アート・インスティテュートの奨学生になった。商業イラストレーションに触れた彼は、それで生計を立て、自分の好きな芸術作品を実践する良い方法であると確信した。1930年代後半に卒業すると、シカゴ周辺のいくつかのスタジオや代理店で仕事を見つけ、ミシガン・アベニューのスタジオで漫画のイラストを描くようになった。しかし、彼のエージェントは、熱心な若いアーティストを安い給料で使い、彼らの作品を高く売るという日和見主義者であることが判明した。ビルは、秘書からキング・フィーチャーズ社からの手紙を見せられ、ビルが描いた漫画の代金に13,000ドルが支払われたが、何の報酬も得られなかったことを知り、彼は仕事を辞めた。
戦雲が立ちこめ、世界恐慌が続いたが、新しい仕事を見つけるのに時間はかからなかった。ブロムグレン・スタジオは、この有望な若いアーティストをすぐに雇い、インターナショナル・ハーベスタのトラック、トレーラー、農場や果樹園のトラクターなどのフルカラーイラストを制作させた。夜にはシカゴ大学に通い、シンフォニックバンドのディレクターであるハロルド・バックマンに師事した。これがきっかけで、未来につながる興味深い出会いがあった。
「バンドは、スタッグ・フィールドの西側にある建物でリハーサルを行っていた。ある日、リハーサル室から立ち退くように言われたんだ。私たちは何が起こっているのか知らなかったが、私たちの元バンド室で、後に原爆が作られたんだ!」。
戦時中の奉仕活動
ビルは、多くの健康な若者と同様に、第二次世界大戦中、アメリカ陸軍に徴兵された。陸軍はすぐに彼の芸術的才能を認め、訓練補助アーティストとしてキャンプ・ファニンテックスでの基礎訓練に参加させた。配属されたのは第91師団の第362歩兵連隊で、イタリアで活躍した。除隊後、シカゴに住む妻コニーと娘パムのもとに戻った。
戦後のコマーシャル・アーティスト
除隊後、ビルは仕事を見つけるのに苦労することはなく、あっという間に仕事が決まった。
ビルのメモから。
「リフレクタ・ハードウエア社のアートディレクターの仕事を依頼された。アーティスト4人とコピーライター1人の計5人のスタッフだった。私は10年間、ダイレクトメールのカタログやオーディオ・ビジュアル・プレゼンテーションの制作に携わった。その後、ミシガン州コールドウォーターのLAダーリング社と契約し、金属、木材、鋳造、プラスチックの4つの企業の販売と広告プログラムを担当することになった。10人のスタッフを抱えていた。私たちは、商品化された店舗設備や木製カウンターのカタログを制作した。鋳物工場は、F-84ジェット戦闘機のブレードを作る契約を結んでいた。プラスチック部門は、女性や男性のさまざまな服をプレゼンテーションするためのマネキンを開発していた。特筆すべきは、ダーリン・プラスチックが初めてプラスチックボートを設計・製造したことだ」
ホーク・モデルカンパニー
ダーリング社で4年働いた後、彼は自分の会社を作る時が来たと感じていた。1950年代半ば、彼は独立し、会社名を「アイデアワークス」とした。当初は安定した収入もなく、フリーランスのエージェンシーのような状態だった。しかし、状況は一変する。
「この時、私はクライアントであるプロモーショナル・アーツ社を通じて、プルデンシャル保険社の複雑なパンフレットを制作していた。
その仕事を仕切っていたリー・クーパーは、プロモーショナル・アーツのすぐ上にオフィスを構えていたミルプリント社から『緊急の仕事がある』との電話を受けた。ミルプリント社は、ディックとフィル・メイツのホーク・モデル・カンパニーの印刷をすべて行っていた。
リーは、ポール・マクスウェルに対し、『ホークの仕事をやってみないか』と声をかけた。ポールは、第二次世界大戦中にノースアメリカン航空のヘッドイラストレーターを務め、『エスクァイア』誌に掲載された航空機のイラストシリーズを完成させたばかりで、この仕事にはうってつけの人物であった。
しかし、ポールはホークの仕事は時間取られ過ぎると考え、リーとミルプリントに『ノー』と返答した。そして、ポールはリーに向かい、『この製図台に、そのプロジェクトに対応できる男がいる』と言った。ポールは私に向かい、『ビル、君のポートフォリオに見せられる航空機のものがあるか』と聞いてきた。彼は、『契約しているアーティストが心臓発作で倒れ、その仕事を完了できないので、1週間以内にイラストが必要だ』と言った」
「それで、ホーク社に出向いたんだ。1/48スケールのバンシーの仕事だった。彼らは1週間以内に撮影用の完成したアートを持って戻ってくるよう言った。そして、予定通り納品した。メイツ兄弟、V・ザウェスキーとJ・アンドリュースは、私の仕事に満足しているようだった。これが、ホーク模型を経営する頭脳集団との長く素晴らしい付き合いの始まりであった。キットのアイディアは彼らの頭脳から溢れ出てきていた」
「時々、私はアートワークに対し贅沢に時間を使うことができた。特に印象に残っているのは、右隅に2人の空軍技術者が描かれたマタドールミサイルの大箱だ。この箱絵は、輸送中のミサイル、昇降されたミサイル、最後に発射されたミサイルを表現したものだった。このイラストはミサイルを段階的に配置したのだが、なかなかうまくいったと思っている。」
「余裕のある時間が常に与えられていたわけではない。もう一方の極端な例として、1/48スケールのジービー・レーサーがある。ある日の朝9時に電話がかかってきて、その日の午後4時までにボックスアートを完成させろと言われたんだ。彼らの納期に驚くことはなかったが、彼らが考えるキットの多様さにも驚かされてきた。飛行機、昆虫、ドラッグスター、ボート、空挺部隊、ケーブルカー、グランドエフェクトマシン(可動した)、モーターで動く車・・・何でも作ってみせた!」
「マーケティング・ディレクターのジョン・アンドリュースには、不思議なタイミングがあった。スプートニクが打ち上げられたとき、シカゴのダウンタウンにあるシャーマン・ホテルで開催される大きなホビー・コンベンションが1ヶ月後に迫っていた。私は、アメリカが軌道に乗せようとしていたアメリカ海軍天文台の衛星のイラストが欲しいという連絡を受けた。私はレイアウトを見せることなく、2日でボックスアートを完成させ、そのまま完成品にした。箱の印刷はミルプリントが行い、モデルの金型はホークが作成した。驚くべきことに、土曜日のショーのオープニングに全パッケージが間に合った。そして、アメリカの衛星の打ち上げは、軌道上で成功しただけでなく、ホークは、宇宙空間に浮かぶバスケットボールサイズの物体の唯一のモデルを手に入れたのです。ホークがコンベンションに出展しているすべてのホビー会社を上回るマーケティングを行う間、衛星の 「ビープ音 」がホビー展示会場中のラジオから聞こえてきた。」
ヴァンガードサテライトのキャンベルのボックスアート
ワイアード・オー
「ホーク社からは次々とキットが発売された。1962/63年頃、最近の航空機や自動車などの模型のコンセプトが自殺行為に近いくらい飽和していることに気がつきました。そこで、休憩時間には製図板に向かって、これはと思うユニークなキットのラフアイデアを書き出しました。スケッチだけではどうにもならないので、立体的な模型を作りました。ドラッグスター(「ディガー」)、ドイツの飛行士「バロン・フォン・ブリッツホーベン」、ドイツの潜水艦司令官「ダス・シンキン・ブーテン」、アスファルトのジャングルで死んでいる「ダディ」などがあった。」
「ある日、ホークに私の小さなモンスターたちを連れてきた。ディックとフィルは、「面白いビルだ。考えてみよう」と言った。私は、長い間オペレーションに携わっていたので、これが友好的な死のキスであることを知っていました。それで、私は自分のモデルを彼らに預けて、次のボックスアートのイラストレーションに戻りました。このモデルはどういうわけか、ホークがディストリビューターを迎え入れる会議室のテーブルに置かれることになった。その日、彼らは工場の仕組みを説明するために、あるグループに求婚していたのです。会議室に到着した彼らは、テーブルに並べられた私の小さなモンスターを見て、夢中になったのです。こうして、「ワイアード・オー 」は生産されることになったのです」。
ビル・キャンベルのワイアード・オーフィギュア「Endville Eddie」とそのボックスアートワーク
「Digger」、「Daddy」、「Davey」、「Drag Hag 」のアート開発を依頼されたのです。ホークは1963年のシャーマン ホテル ホビー コンベンションで5~6体のフィギュアを発表しましたが、言うまでもなく、あとは歴史が証明しています。ウィアード・オーはホークにとって驚異的な売り上げとなり、工場は注文を満たすために残業をするようになりました。私はすべての「ワイアード・オー」、「Silly Surfers」、「Frantics」等のアートを制作しました。ワイアード・オーのレコードアルバムもありました。このシリーズを完成させた後、私は新しいプロジェクトに移行する時が来たと結論づけました。
デソートケミカル
「ホークでの仕事を終えた後、私はデソート・ケミカル・コーティングスという全国規模の大企業から連絡を受けた。同社は、シアーズペイント、洗剤、家具、室内照明など、非常に幅広い製品ラインアップを持っていた。ブラニフ機の側面に描かれたアレクサンダー・カルダーの絵や、ジョン・グレンの再突入カプセルの剥離剤など、航空機用のコーティング剤を供給していたのです。私は、コーポレート・クリエイティブ・ディレクターとアドバンス・マーケティング・ディレクターとして、この会社に参加するよう要請されました。私は1974年に退職するまで、このポジションを務めました。それでも私の考え方が欲しいということで、4年間ほど法的な契約を結んでくれました。その間、私は自分が最も好きなこと、つまりファインアートの追求とクリエイティブなアイデアの開発をすることができたのです」。
「私のクリエイティブな人生を大まかに紹介すると、その中には無限のディテールが存在します。すべての人がそうであるように、私にも爆弾があったのです。それを心の片隅に置いて、前に進むのです。完璧への道をあと1ミリだけ進んだかもしれないと思ったとき、脳の中の小さな隅っこが「カタツムリのような前進を強く受け止めるな、これもまた過ぎ去ることだから」と言うのです。ソロモンの指輪に刻まれたこの一節は、私たちを毎回窮地に追い込む。」
ビル・キャンベル
ホーク「ワイアード・オー」プラスチックモデルキットの歴史
By Bill Campbell -Edited by Alan Bussie
彼自身の歴史とホーク・モデル・カンパニーの情報を提供してくれたとき、ビルは彼が開発した驚異的な「ワイアード・オー」模型キットの歴史を書くことを親切にも引き受けてくれました。- AB
ワイアード・オーの輪を閉じたい人々がインターネット上で声高に主張するいくつかのぶら下がり質問を検討した後、私はこの記事を書くことにしました。私は、皆さんが電子的なサイバー・クエリで明確にした「誰が」「何を」「なぜ」という疑問を最終的に解決するために最善を尽くします。
ワイアード・オーは、1963年からイリノイ州シカゴのホーク・モデル・カンパニーで生産されました。ホークはおそらくアメリカで最も古い模型会社で、その歴史は1928年までさかのぼります。私とホーク社とは密接な関係にあり、私は通常、彼らのためにボックス・アートワークの製作に忙しくしていました。ホーク社との出会いの詳細については、このウェブサイトにある経歴をお読みください。さて、ここからは皆さんが本当に知りたかったこと、「ワイアード・オー」についてです。
ワイアード・オーはどのようにして生まれたのか?
1962年頃、私はほとんどの模型製作者が、単なる車や飛行機のキットに飽き始めていると確信していました。そこである日、私は思考力を働かせ、何か突拍子もないことを考えようと、手製の試作模型を5つ作りました。記憶が正しければ、ディガー、デイビー、ダディ(自分専用の可動棺桶に入っている)、それにフルティズグラバー大佐がアインデッカー肩翼機を操縦して手で爆弾を落としているものだった。もちろんドイツ軍の潜水艦もあり、ドゥクバッサー艦長とアンダーボッテンが、前方の発射管から魚雷を発射していました。
私は、ホークによく行くので、模型を持って行った。オーナーであり創設者であるディックとフィル・メイツは、「これは面白い。みんながどう思うか見てみよう 」と言った。これは、フォーカスグループの前の時代でしたので、私はそれらをホークに残しました。というのも、同じ頃、Desoto Chemical Coatings社が、私をコーポレート・クリエイティブ・ディレクターとして考えてくれていたからです。この仕事は、ペイント、洗剤、照明、家具、航空宇宙用コーティングの5つの事業部すべてを網羅する、エキサイティングなものでした。最後の部門は、航空機用塗料や宇宙再突入機用のアブレーション・フィニッシュなどです。
ディックとフィルが、私の提案にあまり満足していないことを知ったのは、ずっと後になってからだった。マーケティング担当のジョン・アンドリュースは、ホークの製品を見て、「…ミニチュアで機械的な驚異を作り出す」という伝統的な道から外れるべきでないだろう、と言いました。そのモデルは、会議テーブルの上に放置され、その運命を待つことになった。
その同じ週の後半、ホークはシカゴでディストリビューターの一団を招いていた。工場見学の後、彼らは会議室に入った。ディストリビューターたちは、このクレイジーでファンキーなモデルを見て、その背後にあるアイデアに惹かれたのだ。ディックとフィルは、自分たちが作ったものを売ってくれる人たちからの信任を受け、最初の判断を考え直した。ともかく、ジョン・アンドリュースから電話がかかってきて、生産の可能性について話をしに来たのだ。ホーク社は、シカゴのシャーマン・ホテルで開かれる次のホビーショーで、思い切ってキットを提供しようと考えたのだ。ホビーショーは、新製品の反応を見るのに、いつもうってつけの場だった。しかし、今のところ、最初の関心事は 「これを何と呼ぶか?」であった。そこで、私は「ワイアード・オー」と言ってみた。それで、全員がその名前に決定したのです。
開発
ワイアード・オーを次のショーに間に合わせるのは、ほとんど不可能に思えた。時間がなかったので、ジョンと私は、ある計画を立てました。私のモデルやコンセプト・ドローイングのほとんどは、「車輪」が主要な要素であるという前提で始まっていたので、最初のモデルは「ディガー」、次に「ダディ」、そして「デイビー」となります。そして、私がボックストップのフィニッシュアートに着手し、ジョンが金型製作に着手することになったのです。そのため、箱の絵とモデルの間には大きな隔たりがあります。ジョンさんは、私の絵からフィギュアを展開するのではなく、直接金型のカッティングに取り掛かったのです。つまり、箱絵を見て金型を切るわけでもなく、完成したモデルや金型の設計図を見て箱絵を描くわけでもないのです。ディガー」のプロトタイプモデルは1つしかなく、私の知る限りこのモデルのパンタグラフはなかった。ジョンさんは、私の最初のラフモデルを、文字通り直接鉄に置き換えて解釈してくれたのです。
番組制作のプレッシャーから、このようなアレンジになったのだろうが、ジョンは、このアレンジを自分の作品に反映させるチャンスととらえたのだろう。いつの時代も、2人のクリエイターがプロジェクトを担当すると、最終的な成果を競い合うことになる。フィニッシュアートを完成させた後、すでにカットされているダイブロックの図面を見ました。モデラーが組み立てるフィギュアを忠実に表現していない箱絵が出来上がっていることに気がついたのです。しかし、メイツ兄弟はギャンブルで儲けていた。私はそうではありませんでした。賭けているのは確信犯だから、私は手を引くだけだった。
1963年シカゴホビーコンベンション
シカゴ・ホビー・コンベンションには、箱絵と6台ほどの「ワイアード・オー」の実機が用意されていた。少なくともDigger、Daddy、Daveyは、ホークの大きな展示ブースのいつもの飛行機、車、船と一緒に参加したことは確かです。最初は、みんなどうやって撮ったらいいのかわからなかったのですが、そのうちコンベンションの話題になってきました。ホークのセールスマンたちは、何千という注文を書き始めたのです。ショーと面白いキャラクターの紹介は、大成功を収めた。注文はすぐに数十万件を超えた。工場は残業せざるを得なくなった。金型は24時間稼動していたが、「ワイアード・オー」キットの棚は空っぽだった。
拡張
そこで、ジョンと私は、さらに多くの「変なおじさん」を開発するという長い道のりを歩むことになったのです。車輪のモデルを使い果たした後、私たちはスポーツ・フィギュアが最も妥当な方向性であると判断したのです。フランシス」、「キラー・マクバッシュ」、「ウェイド・ア・ミニュット」などが登場しました。ジョンは、ワイアード・オーズのブームをホビー業界の他の側面にも拡大することを提案しました。すぐに、トレーディングカード、ガム、ミルトン・ブラッドリーのゲーム、デカール、レコード、ヘルメット、パズルなど、ありとあらゆるものに登場するようになった。ワイアード・オーズの名前を利用したものは何でもあったのです。
サーファーたち
もちろん、これは『マンスターズ』や『アダムス・ファミリー』と同時期に起こったことであり、これらの要素が奇妙なアイデアに興味を持たせるきっかけとなったのである。ミルトン・ブラッドリー社の「ゲーム・オブ・ライフ」を開発したリューベン・クレイマーというカリフォルニアの男性は、変わったモデルへの興味に影響された。この現象を見た彼は、素晴らしいアーティスト(名前は知らない)と彫刻家のボブ・アレンに集まってもらった。彼らは’Silly Surfers’という名前を考え出し、全シリーズを制作した。ホットドガー・ハンギング・テン」「ビーチ・バニー・キャッチング・レイ」などはその一部である。私は、これらの試作品ほど美しいプレゼンテーションは見たことがありませんでした。どれもこれも素晴らしいジオラマだった。ホークは、ワイアードオーに便乗して、この機会をとらえ、全コレクションを購入した。ただひとつ、ボックスアートがなかったんです。私は、「サーファーズ」と後の「フランティック」の全コレクションのアートを制作しました。
サーファーズを組み立てようとしたことはありますか?発売を急いだため、さらに手抜きをしなければなりませんでした。その結果、簡単にはいかない。私も友人のために組み立てたことがあるのでわかるが、その結果、組み立てが簡単とは言い難いモデルになってしまった。私も友人のために組み立てたことがあるのでよくわかりますが、ピンを使わずにパーツを揃えるのは大変な作業でした。しかし、ひとつ言えることは、ボックスアートはモデルに対して正確であるということです。
ホークは、これらのオフビートアドベンチャーへの投資に対して、良いリターンを得ました。ブームが一巡した後、彼らは古い試行錯誤の航空機に戻りました。それは、イリノイ州ロックフォードのTestorsに売却されるまで、Hawkによく貢献しました。
テスターズ社
テスト社はワイアード・オーをどう扱えばいいのか、よくわからなかったと思います。当初は「Groovies」と改名していました。テスタ-ズが復刻したとき、箱絵は組み立てた模型の写真だった。その結果、静的で奇妙なコンセプトが強調されることになった。結局、昔の箱の絵をコンピューターで加工したものに戻したんです。ある時、その箱が見つからないので、仕上げの絵を描いてほしいと頼まれました。私の値段にビビったのでしょう、その仕事はもらえませんでした。
ワイアード・オーとテレビ
ある日、フィル・メイトが私をミルウォーキー空港まで送ってくれた。到着したとき、私は彼が珍しい飛行機の絵を描いてほしいと言ったのだと思いました。私たちは格納庫に行き、彼はドアを開けました。中に入ってみると、美しいセスナ機がありました。彼は飛行機をタラップまで転がし、「ビル、乗ってくれ」と言いました。心配するな、俺は商用ライセンスを持っているんだ」 と言いました。それで、彼は私をロックフォードまで往復してくれたのです。フィルが航空オタクであることは知っていたので、私は「フィル、これは君の夢の究極の結晶だね」と言った。彼は笑顔で、「今日ほど幸せなことはない 」と言った。そして、「テスターズは、ワイアードオーと一緒にテレビに出撃したんだ!」と、爆弾発言をしたのです。私は完全に驚きました。
予言者より歴史家になる方が簡単なので、この番組は的外れだったとしか言いようがない。若い顧客という新しいマーケットを作るのが目的だったはずだ。まぶたや口元の威圧感をなくすなど、フィギュアの作り直しの根拠はわかりました。しかし、画面上では、全体のコンセプトが異なる印象を与えてしまったのです。しかし、その大群を画面上で表現するのは、中国の消防訓練を見ているようなものでした。この映画のプロデューサーは、テスターズが定めた「ワイアード・オーを20体全部売りたい」という目的を持っていたのだから、仕方がない。
しかし、この映画では、「ワイアード・オー」を20個全部売りたい、というテスターズの目的があったからだ。しかし、ワイアード・オーを新しいアクション志向の人たちに向けてリデザインしようとした努力には、「E」を付けたいところです。私は、「フィックス・アー・アップ 」がデイビーに施したことが本当に好きだ。この顔は、より可動性を高める可能性を持っています。ギャルズは、スリングレイブがセクシーなだけだったのに対して、彼は若い女の子にアピールするためにもっとカワイイものにした。しかし、もうひとつ、再販に失敗した理由は、新しい時代の子供たちにとって、静止画のフィギュアはカッコ悪いということだった。それは、あるプラモデルショーに集約されている。ある販売業者が、10代の少年2人が空母やフィギュアなどを並べて見ているのを耳にした。一人がもう一人に向かって、「でも、これってどうするの?」と言ったんです。彼らは明らかにゲームボーイの最初の愛好者であった。
その後
ワイアード・オーが一巡した後、私はデソトのクリエイティブ・ディレクターに就任するため、ホークを去りました。ホークとの別れは友好的なものでした。5年後、あるグラフィック・コンベンションでジョン・アンドリュースに偶然会いました。挨拶もそこそこに、「どうしたんだ?と聞かれたので、「アンコールができないから、デソトに行ったんだろう」と答えた。ジョンは私が 「Despicables 」をやっていたことを知りませんでした。「パレードは私たちを通り過ぎたから 「彼らが見ることのなかった別のコレクションです。トーマス・ウルフは言った「後戻りはできない」 しかし、それでも人々は、新生ホーク社のプラスチック製ワイアード・オーキットのリイシューを購入することで、若く自由な人生の黄金時代をほんの少し追体験しようとすることを止めないのです。
まとめ
要するに、音楽用語で言えば
ワイアード・オー – W. Campbellによる作曲、John Andrewsによるバリエーション、金型のデザイナーと優れたマーチャンダイザー。
ホーク社の皆さん、ディック・シニアとフィル・メイツ、ディック・メイツ・ジュニア、ジョン・アンドリュース、ボブ・チャランダー(スペルが間違っているかも)、フィル・トンプソン-私が一緒に仕事をした中で最も素晴らしい人たちです。
ビル・キャンベル