1/16 Kogure / Imai / Bandai – Brabham FORD
バンダイの1/16インディカーのキットは、元々、コグレの製品でありました。(コグレはカーモデルに光るものがありましたが、「経営上の諸問題」を理由に1967(昭和42)年7月26日付で解散。金型は「すべて」バンダイに移譲され、バンダイはこれを機会に本社に「模型部」を置き、模型業界に参入。なお、コグレはエーダイ(永大)として、事実上の存続が行われた模様)
さらに、「キャプテンスカーレット」の売上不振で1969(昭和44)年7月9日、今井科学(イマイ)は会社更生法の適用を受け倒産。このとき、イマイの静岡県の清水工場、金型、社員をバンダイが吸収しています。
コグレとバンダイの遺産を得たバンダイは、1971年、本社模型部とは別に新たに子会社「バンダイ模型」を設立し、バンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社模型部が営業と販売を行う体制を確立しています。
Lotus 38
日本インディ
60年近く前、レース黎明期の日本で、インディカーがロードコースを走るレースがあった。
富士スピードウェイで行われたノンポイントレース「日本インディ200マイル」がそれである。
1966(昭和41)年1月3日にオープンした富士スピードウエイで、同年5月2日および3日に第3回日本グランプリが開催された。そのわずか5か月後の10月9日に日本インディが開催されたのだった。
インディをアメリカから連れてきたのは「神彰(じんあきら)」氏、冷戦下のソ連からボリショイサーカス団を招聘したことで一躍名を挙げた伝説的「呼び屋」である。
後援に読売新聞・報知新聞を得た神氏は、レーシングチームの移動、滞在、賞金を含む一切の金銭的負担を引き受け、塩澤進午氏率いる「日本オートクラブ(JAC)」にレースの主催を委託することで開催にこぎつけた。
左まわりオーバルのインディに則り、コースは左回りとし、バンクをバイパスする形で4.3㎞のショートコースが即席で用意された。しかし、30Rのヘアピンと緩い250Rという2つの右コーナーが依然残ることになった。
レースは1週4.3㎞を80周する344㎞。マシンは32台を招待したうち、22台が出走した。
観客は公式で9万人(6万人説あり)も集まったという。
予選は、ジャッキー・スチュワートが時速117.833kmでポールを獲得し、フロントロウにはグラハム・ヒルが並んだ。ジム・クラーク、マリオ・アンドレッティはメカニカルトラブルで予選中に姿を消した。
決勝は、ジャッキー・スチュワートが、2位のボビー・アンサーに56秒、3位のアーニー・クネッパーに3周の差をつけ、ポール・トゥ・フィニッシュで優勝した。
レース内容は、イエローフラッグによるスローダウンが連発し、退屈なものとなった。日本インディの本質は、インディカーによるショーといえた。
3度のインディ500ウィナーで当日の決勝レースで2位となった「ボビー・アンサー」は次のように語る。
「スムーズで速い、いいレース場だった」
「日本のプロモーターは32人のドライバーとマシンの運賃、滞在費を負担したほか、52,400ドルという巨額の賞金を用意した」
「ゲルハルト8台、ローラ5台、ハフカー4台、イーグル2台、ヴォルステッド2台、ロータス2台、BRP2台、アイザート、セシル、ブルーム、エパリー、シュライク、ワトソン、ホーク1台の計32台が集まった」、
「チームメイトのゴードン・ジョンコックは、サスペンションアームに7インチのオフセットを持っていて(注:インディマシンはオーバルコースに合わせて右側のサスペンションアームを長く設定していた)、少なくとも2つの右コーナーがあったから、彼は本当に困ってたんだ。」
「ギアボックスやギアリングについて考えるだけの頭脳は誰も持っていなかった。グラハム・ヒル、ジャッキー・スチュワート、ジョン・メコムの車だけ4速のギアボックスを持っていて、他は2速しか持っていなかった。多くの人がギアシフトをしなかったに違いない」
「あと1つギアがあれば、簡単に勝てたんだけどね」
「ギアリングのほかにゲームプランになかったのは、予備のエンジンだった。アル・アンサー、アート・ポラード、ディック・アトキンス、ボブ・ハーキー、ウォーリー・ダレンバック、リック・ミューター、ボブ・ウェンテ、ゴードン・ジョンコック、ジム・クラーク、マリオ・アンドレッティは、練習走行か予選でエンジンをブローし、それが彼らの週末の終わりとなった」
結局、この日本インディはこれっきりだった。その後、日本CAN-AM(1968年)、F1グランプリ・イン・ジャパン(1976年、1977年)といったレースが単発で呼ばれている。